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タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

音楽におけるパクリについて

音楽

インターネットとかでよく、「この曲は○○という曲のパクリ」とかいう話があります。

必ずしも音楽的な分析に基づいていないものも多くて、単にアレンジが似てる、とか、どっちも定型的なコード・パターンを使ってるだけ、とかいったものもパクリと呼ばれたりするようです。

 

ロックやポップスの多くは割と単純な語法で作曲されてるので、必然的に似てしまうし、あるメロディやコード進行が「聴いてて気持ち良い」ということは、基本的には「聞き慣れてる」ことに起因するから、むしろ似てることが重要なのかもしれない。

 

「真に独創的な音楽」を人々は求めているのか。20世紀前半の現代音楽の初演がよく暴動状態になったり、若き日のオーネット・コールマンがその演奏のせいで暴行を受けたり、そんなことを考えると、どうなのでしょう。

 

表現について、「独創的」「パクリ」という概念それ自体は、それこそ有史以前からあったでしょう。しかし、パクリというのが、「モラルの面で、ワルいことである」という認識は、必ずしも、人類史的に普遍的な事態とはいえません。

 

日本の詩歌には「本歌取り」の伝統があります。

方丈記』で知られる鴨長明の『無名抄』74段や、藤原定家『詠歌大概』などで本歌取のルールのようなものを示してます。

だいたい「自分の作品の中で必然性のある使い方をする」「引用でない部分の方が多くなるようにする」「引用であることがわかるようにする」「他の作者の極めて独創的な表現は使わない」という感じ。

 

定家の時代は、それまでちょっとした芸みたいなものだった和歌が、芸術的な創造行為として、意識されてた時代です。それで、こうやって「パクリ」と「引用による創造」の線引きを試みている。しかしそれはつまり、その境界線が本質的にあいまいであることの裏返しだと思います。

 

パクリは社会的な問題、モラルの上の問題と思われてますが、そうした意識は、資本主義の時代、音楽が商品になったからで、実は倫理の問題じゃなくて、単にお金の問題にすぎない。

それに、資本主義国でも20世紀中頃までを振り返れば、非常にヒドかった。

 

1960年代、レッド・ツェッペリンポール・サイモンなどなど、ロック世代の伝説的な人たちは、ブルースやフォルクローレなどの曲を、自分たちの作曲クレジットで演奏していました。ブルースはロックのルーツ、という言い方もできますが、もっと身も蓋もなくいえば、ロックというのは、非アフリカ系アメリカ人がアフリカ系アメリカ人の音楽(R&B)の真似をする音楽でした。

 

ブルースといえば、ハーピストのサニー・ボーイ・ウィリアムソンには、もう一人の自分が出現しました。
それでついに2人のサニー・ボーイが鉢合わせしてしまい、
「じゃあ、俺はサニー・ボーイ1世、お前は2世」となったとか。

「人の名前をパクる」という、そうとうヒドい事態になってますが、別に社会的な問題でも、モラルの問題でもなかった。芸人同士のシノギの問題であって、個人的に手打ちをして、終わり。2世も平然と、偉大なブルースマンとして歴史に名を残しました。

 

ジャズ・スタンダードの"Walkin"というブルースは、リチャード・カーペンター氏(カーペンターズ兄とは別人)の作曲になっていますが、この人、作曲とかできません。ジャズ業界周辺にいたヤクザで、クスリ代が欲しいミュージシャンから著作権を二束三文で買い叩いたのだと思われます。

日本のクラシック作曲家のゴーストライター問題は、世間からまるで犯罪者のような扱いを受けていましたが(障害の偽装という疑惑についてはさておき)、この名曲の「作者」として、カーペンター氏の名前は、今日でもジャズのCDにクレジットされつづけてます。

 

ジャズの帝王、マイルス・デイビスは、もちろん本当にたくさんの偉大な創造をしたオリジネイターですが、同時に、作曲クレジットのパクリの常習犯でもあります。

マイルスのパクリは非常に深いトピックなので、いつか別に書きたい。

 

マイルスはモダンジャズの始まりである、ビバップムーヴメントの中でデビューしたわけですが、ビバップは、「曲」をコードの束に還元して捉える、インディーレーベルの吹き込みを中心としたアングラ芸術、ということで、パクリと親和性が高い。

 

若き日のマイルスの兄貴分、偉大なるチャーリー・パーカーの歴史的名演"Ko-ko"のtake 1。

いい感じの演奏ですが、誰かが演奏を中断させてます。何がいけなかったのでしょう。

 


Charlie Parker Reboppers 1945 ~ Ko-Ko (Take 1 False Start) w/ (MasterTake 2) - YouTube

 

これは、イントロに続いてパーカーとディジー・ガレスピーが原曲"Cherokee"のメロディを吹き始めたので、プロデューサーが「やめてくれ!」と絶叫しているシーンです(笑)

 

Ko-koという「曲」は、Cherokeeという「曲」から本来のメロディを削除したもので。

つまり、弱小インディーレーベルであるSavoyは、著作権使用料を払いたくない。それでパーカーの「オリジナル曲」を演奏する契約をした。でもパーカーは、メロディなんかいくらでも即興で作れるし、一秒でも早くセッションを終了、不思議な白い粉を買いに行くことしか考えてないので、曲を用意してなかった。

そのようなヒドい事態が、克明に記録されています。

 

"Bird of Paradise"という、これまた名演がありますが、これは"All the things you are"というバラードそのまんまです。アレンジはディジー・ガレスピーのバージョンそのまんまで、最初のテーマで原曲ママのメロディを吹いてるテイクもあります。曲名変えただけじゃないか、という。もちろんアドリブのパートでは、パーカーがその場で作り上げたメロディが展開していくわけですが。

 

パーカーは"Confirmation"とか"Yardbird Suite"とか、オリジナルな名曲も書いてますし、キャッチーなメロディは鼻歌感覚で作れる人なのですが、前述の理由で、スタジオに向かうタクシーの中とか、風呂の中とかで適当にメロディを殴り書きすることしかしませんでした。

 

パーカーの作った、もっとも人をなめきった「オリジナル曲」は、これだと思います。


Charlie Parker - Constellation - YouTube

「ドーレーミーファー、ミーレソードッレー」という、バカすぎる4小節フレーズが、この曲の「作曲」された部分の全てです。あとは全部、すごい即興演奏。

パーカーという天才音楽家が、いかにいい加減で、いかに「曲」なんて何でもいいと思ってるか、ということに深い感動を覚えます。

パーカーは作曲を真剣に志し、作曲家エドガー・ヴァレーズに師事する約束をした直後に亡くなってしまいました。

 

こうしたパクリの多くは、別に大問題になってないし、むしろ、偉大な音楽とみなされ、今日でもそのまま放置されてるわけです。