タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

宗教と貨幣と、私のいぬ

宗教に関心を持つ人は多かれ少なかれ、何かを求めている。そしてある時間の修行、ある額のお金などによって、それに見合った神秘的な何かが獲得される、と思う。

もちろん、札束で買いたたくような不敬な気持ちなどかけらもなく、真剣に教祖や神々を敬った上で、真剣に修行する。


しかし不浄のお金を、教祖様にいくら寄付し、何百時間、宗教団体に奉仕しようが、お金とか時間を惜しいと思う気持ちがあるなら、それはやせ我慢にすぎず、何も浄化されてなどいない。そして今度は、お金とか時間が惜しいと思う気持ちを無理矢理に抑圧し(そういう気持ちを持つことは、よくわからない理由で「罪」であるらしい)、わたしの修行が足りないのだ、と、熱狂したり、ぼんやりしたりする。

こうして負けがかさむと、今まで投資した分をそのままにはできない、と、どうにもそこから離れられなくなり、一層修行に身が入る。あるいは他のもっと良さそうな教祖のところへ行く。


しかし、そもそも求めていたのは何だったのか。自分をつなぎ止めている重石を、捨てることではなかったか。もし修行や寄付などに囚われているのなら、それはその宗教に入る前の世俗の生活と、何も変わらないのではないか。単に、会社をやめてまた別の会社に入ったようなもの。

 

出発点の、何かを対価に何かを「獲得」しようとしたことが間違っていた。それは世俗の世界でやるべきことであり、心の世界でやるべきことではなかった。

なぜなら、

「金貨の雨が降ろうと、満足することはない」(ダンマパダ 法句経186)

欲望にはリミットがないからであり、貨幣でモノを買うように、心の満足を買うことは初めから、できない。お店で買ったモノは取りあえず家に残る。また別のものが欲しくなるにしても。しかし心の幸福は対価を払えば必ず手に入るものではない。

何千時間修行したから幸福だ、ということもないし、何万行の経典を覚えたから幸福だ、ということもない。何億円の資産を持っていても不幸な人もいることと同じ。

 

もう一つ、宗教のような、こころの領域では、簡単に自己暗示や集団心理が発生する。

これも「獲得」の期待を持ち込んではいけない理由の一つ。あらかじめそういう期待を持って実践すると、非日常的・神秘的な何かを得たという思い込みが簡単に生まれる。

よだれを垂らしながらうたたねするだけで「俺のアートマンが、全宇宙と一体となった」とかいう、お前さまのそのすごい自信は、どこから来たですか。

アセンションとかアストラルとかチャクラとか、自分達ででっち上げた造語やイメージを自分で夢に見て、これが神秘的な体験か、などと言っているだけで、実際には寝ぼけている。あまつさえ、そういう白日夢を商品として人様に売りつけるわけだ。

 

空から神が降ってこようと、地から三千の神仏が湧こうと、わたしがこのわたしのままであったら、何も変わりはしないはず。そういう意味で、神々も金貨も実は、何ら違いがない。

多くの宗教の教義を見る限り、天国とか極楽というところは、毎日、各種犯罪や訴訟、交通渋滞が起こっているに違いない。そこに行く人のこころを変えることについて、教義で何も教えていないから。

隣人を愛せ、というが、では、どのようにしたら、隣人への愛が生まれるか。わからない。隣人を愛さないことの「罰」は畢竟、地獄行きであり、隣人を愛することの対価は、私が天国へ往生することである。つまりこれはモラルの問題ではなく、権力を背景にした、一種の商取引だといえる(イエス・キリストの言いたかったのは、そんなことではないと思うけど)

天国と地上との違いは、宗教対立がないことくらいか。

 

現代の日本人は、宗教というのは迷信で危険でアホだ、といいたがるが、宗教のアホさはわたしたちが俗世で繰り広げているアホさと、何ら変わりはない。

 

だからなんらかの対価と引き替えに必ず幸福が手に入ります、と主張する宗教は、よし悪気はないにしろ、ウソをついているか、根本的な勘違いをしている。そこに集まる人々はその論理的なまちがいがわからず、善意で他の人を引っ張ってきて一緒に迷いあう。

 

あるモノを手に入れて、幸福である、と思うのは私であり、それは教祖や教義が決めることではない。

だから、つまりは、自分自身で自分のこころを育てることしかできない。

 

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「意馬心猿」ということばがある。

瞑想においては、たとえば呼吸などを意識を安定させる拠り所にする。

しかし15分間坐禅などの瞑想をしてみれば、自分の心が、外部の対象を求めて激しく動き回り、瞑想の対象に一瞬も留まらないことがわかる。

私の心はもちろん私自身だけど、変な話、またそれは、私が飼い始めたペット、イヌやネコまたはウシ、のようなものでもある。まだ慣れておらず、勝手気ままにあちこちほっつき歩こうとする。

自分が自分自身のペットであって、自分の意のままにならない、ということは、体験してみると、かなり衝撃的。

しかしそこで心を無理矢理に縛り付けてはいけない。それは緊張や疲労を生み、良い結果を生まないから。ペットをしつけるとき、殴ったりするのは論外である。少しずつ信頼関係を築いて、共存できる方向に持って行く。

自分の心は自分のイヌ・ネコなのだから、虐待すべきではない。慈しむべきだ。(でもトイレのしつけなどは責任をもって、ちゃんとする必要がある)