「短歌往来」誌2015年1月号の「次代を担う歌人のうた」特集で眼にとまった歌の一つ。
個人的には80年代以降のほとんどの口語短歌は苦手で、意味の面でも韻律の面でも、関心の対象として浮き上がってこなかった。
この歌も、初めて誌面で見たときは、「真綿で絞める」という慣用句の使用、雲=真綿、という素朴にすぎる直喩が粗雑に見え、素通りした。
しかし、何度も読んでいると、それらは意図されたものだという気がしてきた。
あかるさ=ひとすじの飛行機雲、というのは一つの詩的な見たてで、よく見ると、見かけほど単純な表現ではない。しかし見た目はあくまで、「あかるく」、何の謎もないように見える。
だいたいこの歌の句切れは、どう読めばいいのだろうか。
ひとすじの飛行機雲のあかるさは/世界を絞める真綿のように
と三句切れで読むと、階段を上って下るように、明暗がわかれる。
この場合一首は文として完結しておらず、「ように」どうだというのか、その解釈は読者に委ねられているが、上句三句「ア」音の素直なあかるさが、一首の時間的な流れの中でしだいに翳っていく素直な音調の流れに、魅力を感じた。
四句切れでも読める(強引だと思うが)。すると一首は、
ひとすじの飛行機雲のあかるさは、真綿のように世界を絞める
という文の倒置だが、あかるさは世界を絞める、とは一体、どのような事態なのか。
まあ何句切れで読もうと意味は変わらないのだが、四句切れで読んでみると、不穏さ五割増しである。
たとえばグローバリゼーションだとか、現代社会の抱える諸問題を引き合いに出して、あかるさは、現にこのように世界を絞めているのだ、と指摘することも不可能ではないだろう。しかし取りあえず、この一首において、世界を絞めるあかるさとはそのような一般的な問題とは関わりなく、ある固有の景としてあらわれている。
しかし読者がその景を「なぜ」と問うてみても、その答えは論理的に導けそうもない。
ただこの歌の話者にとって、あかるさは、絞めていたのである。
慣用句、凡庸な修辞、フラットな韻律のみ、そういう言語でしか表現できない、なにか繊細なものもあるのか、という示唆を受けた歌。