タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

石川啄木『一握の砂』、カオス、貧しさ、身振り

石川啄木は、学校の教科書では「生活派」とか書かれていて、何やら世間では、貧しい人たちに共感して、貧しい暮らしをしてる自分の魂を率直に歌い上げた、大歌人、みたいに思われてるふしがある。

その反動で、「実は性格最悪の借金魔だった」とか、なにが「実は」なのかわかりませんが、およそ短歌に興味ないけどゴシップ大好きな人たちの話題になったりしてます。

われわれは、ゴシップには興味ないけど、短歌には興味があるので、ここで、近代短歌の名作として教科書にものってる石川啄木『一握の砂』(明治43年)について、つらつら考えたりします。

 

これは、「名作」なのでしょうか。そもそもこれは、歌集か。

啄木といえば、「名歌」とされるのが、


東海の小島の磯の白浜に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩歩まず

などの歌だと思われます。


しかし、大の男が泣きながら蟹とたはむる光景は、「珍妙」というべきでしょう。

日本列島を「東海の小島」、と表現したあたりが、せめてもの手柄でしょうか。

 

また、大の男が「たはむれに母を背負ふ」などという光景は、ほとんど想像しがたいものがあります。「そのあまり」の唐突な口語調は、韻律的にも、間が抜けています。

 

「涙を拭わず一握の砂を指し示す」は、よく考えてみれば、よくわかりません。

だいたい、「一にぎりの砂」は、どのように「示されて」いるのでしょうか。

それは、どこにあるのでしょうか。

 

自然の状態で、砂が「一にぎり」という様態で存在することは、想像しにくいです。

ならば、砂浜、あるいは砂場のような場所に、理由は不明ながら、土饅頭のような状態で「一握の砂」が盛り上がっており、その人は、それを眼にいっぱい涙をためながら、指さしているのでしょうか。

まあ常識的な理解では、手のひらの上に砂を載せている状態が、「一握の砂」なのであるとしても、その人はどうして、砂を掌に載せ、泣きながら示そうなどと、思ったのか。

だいたい、その人は男なのでしょうか、女なのでしょうか。

こう考えてきても、まったく具体的なイメージがわかない、よくわからない歌です。

 

砂は、多数性、粒子、不毛、変転、無常などの象徴になります。

砂漠の風紋や砂時計を想起しましょう。

ここでは、手のひらをこぼれおち風に舞う一握りの砂は、人間のうつろいやすさなどの象徴だったりするのかもしれませんが、それならば、素直にその象徴性にフォーカスすればいいのに、泣きながら演技をする謎の第三者がでてきたせいで、よくわからない歌になっています。

 

要は、以上の三首はどれも「大げさで、演劇的」だといえます。

しかし、『一握の砂』という歌集の中に置かれたとき、これらの歌の大げさな演劇性は、むしろ、輝いてみえるように思います。

 

『一握の砂』収録歌は、三行分かち書きや歌の主題、手法も含め、連作として明瞭に意図され、全体で一つの世界を作るように配慮されています。

これら「名歌」は、明治41(1908)年『明星』に発表された『石破集』が初出
まだ三行分かち書きが採用されていないことが目につきますが、それ以上に、それまでの啄木の歌風から乖離した「狂った星菫派」とでもいうべき、特異な世界が現れ、一種、後のモダニズムの先駆ではないかとすら思わされるのです。

この『石破集』においては『一握の砂』の極端な連作性とは逆に、一首ごとに主題も文体も変わってしまいます。
全体としては、おそろしき力の到来、女性への憧れ、それと表裏一体の女性嫌悪(思春期をこじらせた男ですね…)、その対象としての少女の群、生活の不安、革命の予兆、エキゾティシズム、黙示録的世界、都市の情景、恋歌、日常詠などが入りみだれ、全体としてはカオスもいいところ。すごくデタラメで、おもしろいんです。

 つと来りつと去る誰そと問ふ間なし黒き衣着る覆面の人

黒い覆面の人がぱっと来て、ぱっと消えた、という歌です。意味は、考えるだけ無駄、というのが、率直な感想ですが、この正体不明「覆面の人」が、同じく正体不明の「一握の砂を示しし人」と同一人物であっても、構わない気もします。


 大海にうかべる白き水鳥の一羽は死なず幾億年も
 西方の山のあなたに億兆の入日埋めし墓あるを想ふ

幾億年も、なんだというのでしょう。これは一種ダダイスムの先駆というか、単なるデタラメというか、まったく意味がわかりません。

トリスタン・ツァラの『ダダ宣言』が1916年。シュルレアリスム宣言が1924年

 

『なにを見てさは戦くや』『大いなる牛流し目に我を見て行く』

直接話法による文体実験もあります。意味は相変わらず、不明です。


 おそろしき力をもちて落ちきたる屋根を支えて柱動かず
屋根の重さを柱が支えてる、というだけのことを「重力」にフォーカスして歌ってます。新感覚派です。

 砂けぶり青水無月の一方に高く揚がりて天日を呑む

やたらにイザナギイザナミの神話、あるいは黙示録的な歌もでてきます。


 千人の少女を入れて蔵の扉に我はひねもす青き壁塗る

 見よ君を屠る日は来ぬヒマラヤの第一峯に赤き旗立つ

「恋ひ」の誇張表現の範疇だと思うのですが、なにやら嗜虐的な歌もあったりします。前者など、前川佐美雄『植物祭』(1930)とか石川信夫『シネマ』(1936)とか、そういう後のモダニズム短歌の文体っぽく。啄木は口語短歌/ライトヴァースの歴史のはじめの方にいた人じゃないだろうか、と思ってる。ロシア革命は1917年、この歌初出の9年後です。

では同時代のこういうモダニズムの萌芽はあったのか。

啄木はエッセー『食ふべき詩』(1909年12月)で

象徴詩という言葉が、そのころ初めて日本の詩壇に伝えられた。私も「吾々の詩はこのままではいけぬ」とは漠然とながら思っていたが、しかしその新らしい輸入物に対しては「一時の借物」という感じがついて廻った。」

と書いています。日本への象徴詩の紹介は、上田敏の訳詩集『海潮音』(明治38年(1905))を嚆矢とするようで、啄木のこういう方向性は直接的にはここから来ているのでしょう。しかし短歌という領域の中で同時代の動きはどうだったか、ということはまだ勉強してません。新詩社同人だった萩原朔太郎の『月に吠える』(1917)以前の短歌、

  心臟に匕首たてよシヤンパアニユ栓拔くごとき音のしつべし(1909)

  夕さればそぞろありきす銃器屋のまへに立ちてはピストルをみる(1910)

 などは、ここでの啄木の歌より大人しい。

 

 石破集にもどって、

 漂泊の人はかぞへぬ風青き越の峠に会ひにし少女
 ふるさとの君が垣根の忍冬の風を忘れて年七つ経ぬ

抒情的な恋歌が、こわれた歌の中になんの脈絡もなく、入ってます。

 

 水晶の宮の如くに数知れぬ瑠璃杯を積み爆弾を投ぐ
 わが家に安けき夢をゆるさざる国に生れて叛逆もせず

前者はロマンティックな狂言綺語にすぎませんが、しかし明らかに「われは知るテロリストのかなしき心を」の『ココアのひと匙』に通ずるものがあります。


などなど、こういう歌が百首以上も並んでます。

このような『石破集』の中に最初に挙げた歌や、同じく『一握の砂』収録の、「燈影なき室に我あり父と母」などが並ぶのを見ると、「大げさな演劇性」と先に書いたものが、もともとは、まさに「大げさな演劇性」を意図して書かれたのではないか、とも思われてきます。


明治41年『明星』掲載作品における混乱ぶりは、和歌的なロマンティシズムを啄木自身の中で破壊しようとする意図なのではないでしょうか。

啄木にかつて影響を与えた与謝野晶子だって、「肉体」をもった歌で、ドカンと一発、時代の壁をぶっこわしたわけで。俺もいつか壁をぶっ壊す、俺自身のやり方でな、俺は明星の先を行くぜ、とかいう野心はあったでしょう。ここでは、さまざまな文体を使って、それらの可能性を検討しているようにも見える。

 

そして、ここでの多様な方向性から、文語的なもの、詩的なもの、幻想的なものをほぼ捨て去り(多少は残ってる)、散文的、フラットな口語表現日常的な主題に限定した連作を意図して、『一握の砂』は構成されています。

「食ふべき詩」すなわち「両足を地面に喰っつけていて歌う詩」「我々に必要な詩」、生活の言語と詩の言語を一致させようとしたわけです。

 

 「ああ淋しい」と感じたことを「あな淋し」といわねば満足されぬ心には徹底と統一

 が欠けている。大きくいえば、判断=実行=責任というその責任を回避する心から判

 断をごまかしておく状態である。趣味という語は、全人格の感情的傾向という意味で

 なければならぬ(『食ふべき詩』)

 

定型詩」というのはそもそも日常の口語ではなく、「ああ淋しい」と感じたことを「ああ淋しい」とけして言わないことではないでしょうか。すると、短歌の中でそのような「徹底と統一」を実践することは、自己破壊にしか行き着かないのではないでしょうか。

しかしそもそもこの『食ふべき詩』は「詩」についてのエッセイであり、「短歌」に対してはずいぶん冷淡です。

すなわち啄木は本当は書きたい小説が書けず、「その時、ちょうど夫婦喧嘩をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱ったり虐めたりするような一種の快感を、私は勝手気儘に短歌という一つの詩形を虐使することに発見した。」と書いています。そうとう情けないメタファーですが、なんだか実感がこもってます。

まさに『石破集』あたりの作品のことでしょうか。

啄木が、詩歌の枠に収まらないリアルなものを求めてたことは事実でしょう。

とはいえ、われわれには、ここでの啄木のことばを額面通り信じる義務などさらさらなく、本当は小説が上手くいかなくて、一瞬、「やっぱ俺は詩歌の世界に生きるしかないのか…?」と短歌に本気だしちゃったのでは? とか、思春期をこじらせた天才詩人の単なるフカしなのでは? などとあれこれ邪推することも可能です。

 

さはあれ、とにかく「食ふべき詩」を、(啄木自身のことばを信じるならば)いくらでも作り捨てられる短歌でやってみたら簡単にできてしまった、でも小説は書けない、というのが『一握の砂』だというわけです。

そのフラットな表現の中に『石破集』の演劇的で大げさな歌が要所要所で混じると、いい感じになるわけですね。

そして、現在の視点からは「口語短歌の元祖の一人」とかいえるわけですが、歴史的のこの段階においては、啄木の方向性は、「和歌をぶっこわしてみた」というのが正解でしょう。

 

つまり、俗語、三行書き、極端な連作性、というのは、伝統的な調べを裁ち切り、一行のうたである短歌を折り、ストーリーテリングの道具とすることであり、それは短歌を詩にすること。啄木の詩は、力強い比喩や巧みなストーリーテリングがあって、上手い。啄木のその先の射程には散文があって、もっと長生きしたら、間違いなく歌を捨てたでしょう。だから『一握の砂』を「短歌の歴史的名作」というべきではないと思う。

『一握の砂』で私が好きなのは、たとえば次のような歌。


よく怒る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ

水のごと
身体をひたすかなしみに
葱の香などのまじれる夕

うす紅く雪に流れて
入日影
曠野の汽車の窓を照せり

旅の子の
ふるさとに来て眠るがに
げに静かにも冬の来しかな

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

赤紙の表紙手擦れし
国禁の
書を行李の底にさがす日

真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし子のあり

 

「うす紅く」は、一応ふつうにきれいな短歌も作ってる、ということで。

「旅の子がふるさとに来て眠るように」「冬が来る」というのは力強い比喩だし、

「水のごと身体をひたすかなしみ」というのもありますが、全体に詩的な表現は控えめです。後者の比喩は「葱の香」というごく日常的でビンボー臭いものにつながるわけで。

「真白なる」は客観描写を媒介にした主観表現、後の近代短歌のスタンダードな文体。

そしてやはり「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」という身も蓋も無さ

やまとうたの歴史上、最も悪辣な体言止め「いのりてしこと」には、啄木没後100年を経た21世紀の人間をも、「それは、どういうことだよ!」と叫ばせてしまう破壊力があります。よくわからないけれど、啄木のこの歌を読んだ日本人が、全員不良になってしまえばいいと思います。

悪辣、というのは、体言止めは余情を表現する言いさしですが、この歌は完全に言い切っており、表現すべき余情が存在しない。にも関わらず、「〜てしこと」とか書いてる。つまりヒドいことを言い捨てた上で、結句の形だけ適当に抒情的っぽくしておけ、という、啄木の悪意を指して、いってます。


詩はさびし木の精ひそむ山彦のけざむさ添へて声かへすごと(明治36年、明星)
「詩はさびし」などという世界から、啄木はずいぶん遠くに来てしまったようです。

そんな中に、こういうロマンティックなヘンな歌が交ざってたりもする。


はてもなく砂うちつづく
戈壁(ゴビ)の野に住みたまふ神は
秋の神かも
 
風流男は今も昔も
泡雪の
玉手さし捲く夜にし老ゆらし

連作性ということでいえば、二度でてくる停車場の歌に続き「ふるさとの山に向かひて」で締められる『煙』の後半部などに巧みな構成力があらわれている。「忘れがたき人人」も全体を通して読んではじめて胸をうつような作品だ。

啄木は天性の詩歌人としての自分を殺して批評家/小説家になろうとして、死んでしまった、ようにも思える。



われは知る、テロリストの

かなしき心を――

言葉とおこなひとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪はれたる言葉のかはりに

おこなひをもて語らむとする心を、

われとわがからだを敵に擲げつくる心を――

『ココアのひと匙』

 

 

新編 啄木歌集 (岩波文庫 緑54-1)

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啄木詩集 (岩波文庫)

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