けふ桜しづくに我が身いざ濡れむ香ごめにさそふ風の来ぬまに
きょうさくら/しずくにわがみ/いざぬれむ/かごめにさそう/かぜのこぬまに
風にさそわれてさくらが散る前に花の雫に濡れよう、ってだけの歌ですが、香気ある音調が、好き。
四月になるとJ-POPだのの歌詞にやたらに桜が舞い散ることに、若干の愁いを感じないでもなく。
だって、ソメイヨシノが日本の美の極致、日本の伝統美、みたいな感じに思われがちですが、万葉にしろ王朝和歌にしろ、四季折々のいろんな植物をうたってた。
モモやウメの何が駄目だというのですか? カキツバタ、タチバナとか。卯の花も。
夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん
よわさめて/みれば よわさえ/しらじらと/さくらちりおり/とどまらざらん
馬場あき子(『雪鬼華麗』,1980)
馬場氏が主催する「歌林の会」ホームページにおける作者自注では、京都に旅した際の宿の庭での属目であることが明らかにされていますが、この歌を味わうとき、そうした「事実」を採らなくてもいいと思います。なぜなら、
「夜半さえ〜桜散りおり」の「夜半さえ」。
ものみな眠る時刻になぜか一人目覚め、その闇の中でふいに開かれた眼が、ただ、眠りの彼方に常にふりしきる不可視の花びら、それだけを見つめている。意識の覚醒と眠りを貫き、超えている、生命というものの、ある種無情の連綿、そんな印象も受けるからです。
仕事帰りに都心の小さな児童公園を通ったら、桜の花の満開の下には、大勢の酔つ払ひが埋まつてゐる。
そして公演の隅にたぶんコブシではないハクモクレン、が咲いていたのだが、その周辺は、無人です。きれいなのに。
そんなことで、桜以外の花に肩入れしたい気持ちはやまやまですが、確かに満開の桜は悔しくもきれいで、岡本かの子の歌を思い出した。
桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり
さくらばな/いのちいっぱいに/さくからに/いのちをかけて/わがながめたり
ものすごく大げさな歌謡調ですが、しかし桜の枝の、あの張り出した感じ、その細枝までしつこいほど(なぜか桜に対する敵愾心に満ちてます)花が開いてるところ。
桜を眺めてて、たしかに「いのち一ぱいに咲くからに」だなあ、と思いました。
桜の歌なのに、花が散ってないところも、好感度大。
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
百人一首の歌です。
今手元に資料がないが、斎藤茂吉が「上下に対照があるのである」とかいって、素人向けの歌、みたいなことを書いていた気がします。茂吉のいう対照ってのは、「のどかな」と「落ち着きなく」で、それがリクツだと言ってます。
安東次男の、読めば読むほど歌が多義的になってわからなくなる評釈『百首通見』では、王朝人にとって「木々のこころ」はことさらな擬人法ではなく、自然なものだったのではないか、というようなことを書いてました。ペットみたいなもんだと。
また「しづ心なく」は桜の擬人法というだけではなく、見ている人のこころが落ち着きないんだと。そうだろうと思います。
しかし、島木赤彦『歌道小見』を読んで思った。
正岡子規、島木赤彦、斎藤茂吉のアララギ派の王朝和歌批判というのは、もちろん和歌の近代化を成し遂げるための「ためにする」批判で、インド人のカレー屋で、福神漬けが置いてないからと修羅になるような、デタラメな難癖つけてるわけですが、彼らの主張は、歌は生命の真実を直に述べるものだ、というようなことで。
それって、彼らが批判した紀貫之の、古今集仮名序「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」に始まる部分に、ほとんどそのままじゃねえか、と思った。
古今集仮名序も、「漢詩」に対してやまとうたの文芸としての正統性をぶちあげるマニフェスト。歴史もあるし、すぐれた感情表現だし、漢詩みたいな六義もある!と一生懸命に言い張っている。
つまり、その後やまとうたは「近代文学」に対しても、もう一度正統性をぶちあげられねばならなかった、『歌よみに与ふる書』にはじまる近代短歌の歌論も、けっこう古今集の反復なんじゃないかな、と。