雉子焙かれつつ昇天のはねひらく 神無き母に二まいのてのひら
きじやかれ/つつ しょうてんの/はねひらく/かみなきははに/にまいのてのひら
第四歌集『水銀伝説』収録歌。
上句を見た瞬間、かっこいい、と思ったのですが、下句が難解で、ぶっちゃけ、わけわからなかった。でも先日、会社の喫煙室でぼんやりしてたら、突然、わかった。
三句切れ、初句二句に句またがり。
上句と下句のあいだに一字アキ。
アキがないと
「〜はねひらく神無き母に〜」となって、「開く」が終止なのか連体なのかわかりづらく、具合が悪い。
雉子焙かれつつ昇天のはねひらき神無き母に二まいのてのひら
とすると、「〜つつ〜ひらき〜」となって、「朝おきて〜顔を洗って〜歯をみがいて〜」と子どもの作文みたいになってしまう。
そもそも、
上句「雉子焙かれつつ昇天のはねひらく」と
下句「神無き母に二まいのてのひら」という二つの事態には因果関係がなく、
「〜ひらき」とはできない。
つまり、一字アキで二つの無関係な事態が並列されている、上句下句を分断しつつ連結し、「疎句仕立て」を成り立たせるための一字アキ。
ネットの短歌がやたらに五句すべてにアキや改行を入れてるのは、なぜなのかしら…
最近のヤング・ジェネレーションは、みんな、善麿、啄木や会津八一の影響を受けてるのか。(たぶん違う)
それで、焼かれるキジと神なき母にどんな関係があるか、ということなんだけれど…
上句は、雉がローストされてるところ。
生きてたときの鳥の羽根はすでにむしられており、「昇天のはね」として炎をまとっている。
解釈はさておいても、焼かれつつある鳥が炎の中に羽根をひろげてる。残酷でもあり、すごく美しくもある、と思う。なんだか、哀しい感じもする。
それですなわち、これは一つの、復活あるいは転生の図なわけだ。
復活・転生といっても、昇天のための復活であり転生という、捻れた構図なんだけど。
まあ、単においしそうな、厨房の光景でもあるんですけどね。
なんだか、お腹すいてきた。
それで、「神無き母」。全く、わからん。
そんなんいうなら、じゃあ「神有る母」つうのは何なんだっていうならば、そんなん、聖母マリアのことだべ。
つづいて難解な「二まいの手のひら」。
「神無き母に、二まいの手のひら」なんだから、
「神ある母には、二まいの手のひらじゃない」、わけだ。
ヘリクツ? …すみません。
神ある母には何がある? 神の子がある。そして二まいの手のひらがない。
なんか、言ってることが、フリーメイソンの入会式とか、『マスグレーヴ家の儀式』みたいなことになってますが。
聖母哀傷の図像、ピエタのことだよワトソン君。ピエタにおいて、母の手のひらはイエスの体に覆われている。
さてピエタからイエスを取り去った図像が、すなわち
「神無き母に二まいのてのひら」ということになる。
「昇天の」イエスは、三日後の日曜日に復活するが、それを見るのはマグダラのマリアであり、聖母マリアはもはや登場しない。
キリスト者ではない塚本邦雄にとって、愛読書たる『聖書』は神の書ではなく、徹頭徹尾、人間の物語。「人の子」としての、ナザレのイエスに強く共感してたわけです。
初期の歌では、娶らざりしイエス、とか、戦中〜戦後日本への否定的なモメントとして聖書を援用してた。
秋ふかきピエタに赤き罅はしりあきらかに屍毒(プトマイン)もつイエス
この歌なんかは、表現はどぎついけど、人間としてのイエス、ということを言ってるわけでしょうな。
それで、塚本はまた「聖母」という逆説に注目しただろうと思います。
父と子と精霊の三位一体、ならば論理的には、「母」が介在する場所がない。
十字架の下に聖母がいたという記述は『ヨハネの福音書』にあるが、マルコ、マタイ、ルカの福音書では、マリアが最後に登場するのは、磔刑以前、巡礼に出るイエスに「母」たることを否定された場面である。
ここでは、母マリアの「二まいの」手のひらは、焙かれつつ天に昇る雉子に対したまま、虚空に開かれている。
「二まいの」手のひら、という風変わりな措辞は、雉子の「二枚のはね」とのアナロジーをなす。手のひらのかたちと鳥のつばさの、形態的なアナロジーでごわす。
自分の信念を貫いて昇天しつつ、やがて復活するのは、キリストであるイエスであり、マリアの息子であるナザレのイエスは、もはやどこにも存在しない。
すなわちこれは母の死であり、焼かれつつ昇天のはねを開いているのは子であると同時に母でもある、ことになる。
そういうわけで、これは塚本の聖母への哀傷歌なのだ、と思ってみたりするのであった。