大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも
おおきなる/てがあらわれて/ひるふかし/うえからたまごを/つかみけるかも
第二歌集『雲母集』(きららしゅう、大正4年)の歌。
三句切れ。意味は、
大きな手が現れて、しんかんと真昼間、上から卵を掴んだんだよ
みたいな感じ。
ナンセンスな歌ではない、と仮定して常識的に読めば、たとえば、ニワトリか何かが朝生んだ卵を昼間、にんげんの「大きな手」が掴んでいった、というような光景か。
鶏視点。
にんげんの「手」だけをクローズアップするのは、「換喩」。
それと、技法的な面で、この歌のおもしろさを作り出しているのは、「省略」。
すなわち、ニワトリ云々、などの、解釈を助ける事情は全く書いてないので、読者が見るのは、空に現れた巨大な、手。
それが何をするかというと、ちいさな卵を一個つかんで、また消えていく。
描いてる「現実の景」がトリ視点だとしたら、描写の省略によって、読者はトリの視点に立つことになる。そうすると、世界ぜんたいが拡大されて、摩訶不思議な光景になる。
白秋の卵の本歌取りと思しき歌が塚本邦雄にあって、
高度千メートルの空より來て卵食ひをり鋼色の飛行士
塚本邦雄(第二歌集『装飾楽句』)
こうどせんめー/とるのそらより/きてたまご/くいおりはがね/いろのひこうし
初句七の77577、句跨がり多用、なのだけど、句の切れ目が、一瞬わかりませんでした。「こうどせん。メートルのそら。よりきて…あれっ?」となる。初句二句の句跨がりが強引なので。
こうなるともう短歌定型ウルトラクイズ、というか、ここまでの破調感は、初期の塚本の歌でも、珍しい気がする。
この歌も「乗ってた飛行機を降りて」などという事情が省略されてるので、高度千メートルから、地上のちっちゃな卵めがけて垂直に降下してきたような表現になってる。
全体を描かず細部を拡大するのは、モダニズムの一つの典型的な手法。
塚本の歌は、白秋の卵の歌のモダニズムを強調したような作り。
20世紀の短歌の方法を理解する上では、高階秀爾『20世紀美術』(ちくま学芸文庫,1993)のような本も、役立つかも。