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タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

カフカの『変身』の「意味」

グレゴール・ザムザはある朝目がさめると、「毒虫」に変身していた。

 

ゲオルク・ベンデマンは、突然威厳を帯びてたちあがった父から「判決」をうけ、川に飛び込んだ。その瞬間、橋の上に無限の雑踏が始まった。

 

フランツ・カフカ(1883-1924)の『変身』の意味がわからない。どういう意味なの?と聞かれたら、

以下のように、答えることができる。

 

「家族の中で、毒虫になったような気がした」「毒虫のような目で見られているような気がした」→「わたしは家族の毒虫だ」

 

「毒虫になったような」は直喩、「わたしは毒虫だ」は、隠喩

 

すなわち、ザムザは、家や社会で、孤立していて、それを「毒虫になった」とたとえている

それだけだと、ヘンなのは、「喩え」であって、たとえられてる現実そのものは、ヘンじゃない。

 

でも、カフカの場合は、「現実」も揺らいでヘンテコに変わってしまう。

 

ニュースなどでよく聞く「消費税増税に対して、国民の審判がくだされます」ということば。「審判がくだされる」は、隠喩。

総選挙で、与党の計画してる増税への国民の評価がはっきりする、ということを裁判に喩えている。「隠喩」は、ある意味を言おうとするとき、その表現を、別の表現に置き換えることで、イメージをずらす。もとのコトバからかけ離れていることが、イメージを豊かにする。

 

でも「選挙」と「裁判」の言い換えは、それほど豊かなイメージの変化をもたらしてない。これは「決まり文句」であって、隠喩としての機能がない。ただコトバをそれらしく言い流すためだけの隠喩、ともいえる。こういうコトバが、日常の世界にはあふれている。たいして意味がないんだけれど、別にギモンももたないし、自分も、つい口にしてしまう。

 

直喩も隠喩も、どちらも喩え(たとえ)による現実的なものごとのいいかえだけれど、

カフカの物語のなかでは、喩えがそのまま現実そのままの描写になってしまう

だから読んでてヘンな感じがする。

 

『変身』の物語では、店の支配人が巨大な虫を見て腰を抜かした、だとか、餌はリンゴだったとか、「本当に家に巨大な虫が現れたシチュエーション」がことこまかに書かれていく。ザムザが虫であることは、もう喩えじゃなくて、物語の中の現実

 

『判決』ではちょっとぼんやりしてベッドに寝ていた父親がとつぜん、文字通りの「法の執行者」となり、神のような威厳をもって主人公に死を命じる。

すると、主人公はそのことば通りに、死ななければならない。

 

ことばの表現が、そのまま現実である世界。

「二足のわらじを履く」(兼業する)という人が、文字通り履き物を二つ履いて歩いてくるような。だから、ヘン。

 

カフカの物語の世界では、隠喩が暴走していって、日常的な「毒虫のような気がした」を圧倒してしまう。

 

オーストリアハンガリー二重帝国のプラハ(現在のチェコの首都)に生まれたユダヤ人で、チェコ語しか話せない父とドイツ語を話す家庭に育った母の間に生まれ、ドイツ語で書くカフカにとって「母語」というのは、そういうねじれたものとして、あったのかもしれない。

そしてまた、そういうねじれたことばのねじれによって、書くこと。それは、決まり文句だらけの、ねじれた、日常からの、コトバの解放、でもある。

 

それで、カフカの小説は、ねじれてておそろしいのだけど、そのねじれの中でねじれたまま、不安なままに、奇妙に安らかだったりする。

 

毒虫としてリンゴを投げつけられるだけでなく、家のなかに起源も行く末も知れぬなぞの生物「オドラデク」がくすくす笑いながら、闊歩してたり。

 

 

カフカ短篇集 (岩波文庫)

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