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タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

ひら仮名は凄じきかなはははははははははははは母死んだ/仙波龍英

ひら仮名は凄じきかなはははははははははははは母死んだ
仙波龍英
ひらがなは/すさまじきかな/ははははは/ははははははは/ははしんだ

一睡もしてない状態で書いてるので、意味不明かもだが。

「かな」のパロディ的な文語調を交えた口語歌。
「すさまじ」現代語では「ものすごい」意味だが、古語では「あじけない」意味もある。どちらをとるかで意味は大きく変わってしまう。

「は」12音の戯れを、意味の上で2通りに解釈できるやうに思ふ。

■解釈1。
一首は「母が死んだ」事実を記述している。
その事実に対する語り手の感情を表す序が、「ひら仮名は凄まじきかな、はははははははははははは」である。


「ははははは」は空虚な笑いであり、もちろん「母」でもある。すなわち、母が死んだという事実に対する、虚脱した笑い、母を呼ぶ呟きあるいは声にならない叫びを表現しているのである。

こちらがごく自然な解釈だと思う。「母死んだ」、その隠喩としての「ひら仮名は〜ははははは」。
一首は「人間的な感情の、巧緻な表現」として秀歌となっている。そしてそれは、おそらく虚構などではなく、作者の実体験、「事実」の重みを持っているのだ。

■2つめの解釈。
一首は、2つの連続する事実を記述している。
すなわち「ひら仮名は凄まじきかな、はははははははははははは」という言語的な戯れに連続して、突如「母死んだ」という事態が起こった。
つまり、一首の語り手は、言語との遊戯的な関係を生きていたのだが、そこに突然、母の死が訪れたのである。

こちらの解釈では、「はははははははははははは」は、記号化された母、感情をもたない、単純な記号列であり、「ひら仮名の凄まじさ」を意味しているにすぎない。

「母」とオノマトペの結びつき、ならばこの歌は、寺山修司『家出のすすめ』の「ハツハツハツハツハツ」の本歌取りである。
寺山には他に「…ギギギギギギギギギギギギギの字の飛行機大編隊!魂だよ忠太郎さん!」というのもあるが、作者は当然、こうした歌を意識しているだろう。

これが解釈2。そして、わたしはこの歌を初めてみた瞬間、2の解釈のほうを、つよく感じてしまったのである。
無感動な時間の持続「ははははは」に、突如穿たれる簡潔なピリオドとしての、「母死んだ」。
ならば、「母死んだ」のあとにも、さらにまた「はははははははははははは」が続かないとも、誰にも断言することはできないだろう。ここには、少なくとも歌の表層には、何の感情も書きあらわされていない。

それで、わたしは、何も意味していないが故に凄まじい記号列「はははははははははははは」に一つの悲劇を感じたのである。

この歌が収められた歌集『墓地裏の花屋』には膨大な詞書があり、この歌にも(享年七十二歳)という詞書きが付されているのだが、私が何かの引用によってこの歌を初めて知ったときは、そのことを知らなかった、あるいは、意識してなかったと思う。

 

そして残念なことに、未だにこの歌集は手に入れていない。

だから、連作的意図をもった歌を一首独立の歌として読んだことによる解釈上の問題があるのかもしれない。

記号列は記号列に、「はははははははははははは」を「はははははははははははは」として読むことは、一首を隠喩的なファミリー・ロマンス、という場所に着地させるよりも、私の好みにかなっていた。

 

しかしそれにとどまらず、2の読みが、解釈1における、空虚ではあるがおそらく慟哭に近い「母、母、母」と重層的に現れるとき、読者であるわたしは、この奇妙な歌に、少し近づきえた気がする。