タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君/桝野浩一

好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君

すきだった/あめ あめだった/あのころの/ひび あのころの/ひびだったきみ

桝野浩一

 

桝野浩一は、詩歌の伝統的な技術は意図的に切り捨てちゃって、ブンガクを知らない人にもどれだけ届くか、みたいなことにチャレンジしてきた歌人

それは重要な仕事であり、重要な歌人の一人だと思います。

 

でもあんまり、おらの趣味にはあわない。

おらは、ゲージュツの、「共感できること」より、「めまい」がすきなタイプのひとだから、それはしかたないです。

 

有名な「かなしみはだれのものでも」にしても、「うーむ、ことわざではあるまいし」と思うてなりません。

 

しかし、桝野浩一のことばに、おらは、二度、打ち震えさせられた

図書館で歌集のページを開いたら右ページに、

 

 結婚はめでたいことだ 臨終はかなしいことだ まちがえるなよ

 

と大書きされていました。「ふーん」と思って対向ページに目をうつすと

 

 もっともなご意見ですがそのことをあなた様には言われたくない

 

と大書きされてるのが目に入った。その意味はまったくわかりませんが、おらは、図書館で変な笑いを抑えようとして、打ち震えた。一首独立の歌として読んでも、そんなにおもしろくはないと思うけれど。

 

二度目は、本屋で『淋しいのはお前だけじゃな』と書いた桝野浩一の歌集が目にとまり、「ふーん」と思った30秒後に、最後の「い」は存在しない、ことに気づいた瞬間。思わず、書名を、二度見直した。

それから、人でごった返す都心の本屋で変な笑いをこらえようとして、打ち震えた

 

そのように桝野浩一作品には常日ごろ、不意打ち的なめまいを感じさせられてきたわけですが、この歌はけっこう好き

 

 きょうはラの音でくしゃみをしたいから「ドレミふぁんくしょんドロップ」は青

 きょうはらの/おとでくしゃみを/したいから/どれみふぁんくしょん/どろっぷはあお

 

ファンクションというのは、機能という意味。函数という意味もある。「ドラえもんの道具」っぽいイメージとくしゃみのオノマトペを、「ふぁんくしょん」一語で同時に表現する力業。風変わりで、楽しい歌。

 

それで本題の、

 

 好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君

 

技術を切り捨てた、といってもこの歌なんかは技巧的。

句跨がりを使ったルフランの効果によって、雨→日々→君と想いが遡っていく

なんか「あのころの日々だった、君…」とかいって、フォークソングの歌詞みたいなものがただよっていますが、この歌は構造的におもしろい。

 

二・三句は、

 (1)雨=あのころの日々

四・五句は

 (2)あのころの日々=君

したがって、

 (3)雨=君

すなわち、初句にもどって

  好きだった雨=好きだった君

 

この歌は「好きだった君」というフレーズを展開してできてるんですな。

あるいは代数的ともいえる。

 

てのりくじら―枡野浩一短歌集〈1〉 (枡野浩一短歌集 1)

てのりくじら―枡野浩一短歌集〈1〉 (枡野浩一短歌集 1)

 

 

ドレミふぁんくしょんドロップ―枡野浩一短歌集〈2〉 (枡野浩一短歌集 2)

ドレミふぁんくしょんドロップ―枡野浩一短歌集〈2〉 (枡野浩一短歌集 2)