この記事はなんかしっくりせず、削除した。そしたら、ずっとgoogleの検索結果に残ってる。それでなんか片付かない心持ちがするので、もう一回書く。敬称略。
☆
朝の通勤電車で、岩波文庫『病牀六尺』を読んでた。
正岡子規が、落合直文の歌を批評してた。
わづらへる鶴の鳥屋みてわれ立てば小雨ふりきぬ梅かをる朝
要は、「病む鶴」が一番強いイメージだが、それを活かしておらず、一首がバラバラになっている、という批判だった。たとえば、
「鶴の鳥屋」では、鳥小屋にウェイトがかかってしまう。
これはどんな情景なのか。「見て立つ」は個人の庭園っぽくない。ならば、「梅かをる朝」は、動物園の景なのか。
四句切れの「梅かをる朝」体言止め。ここに至って病鶴はどこかへ行ってしまう。
また、梅のかすかな匂いを追う意識と、鶴を「見る」意識は両立するか。
こんな感じで、措辞とか、題材の選択のレベルで「お前の歌は、間違ってる」といいまくっていた。
これ、もとは新聞連載で、七日間にわたり、こういう全否定に近い評を書いてた。
明治は遠くなりにけり。
☆
そして夜、帰宅の電車で角川『短歌』を読んだら、大辻隆弘の『読みのアナーキズム』という歌壇時評が乗っていた。
『短歌』四月号の『次代を担う20代歌人の歌』は、20代の新鋭歌人の連作にベテラン歌人の批評がガチンコでぶつかる、おもしろい企画だった。愛のある企画だと思った。
なんでもその中で、小池光が服部真理子『塩と契約』の
水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水
などについて、「まったく手が出ない。これは何か?」(略)「イメージが回収されていないのでキツネにつままれたようである」と評したことなどが、議論になっているのだという。「イメージが回収されていない」は、隠喩が具体的な景を構成していない、という意味だと思った。
この「水仙と盗聴、」も「連作7首」の流れの中で読むべきかもしれないが、読み直しても、一連にあまり具体的な関連性は読めなかったので、この歌だけ読む。
服部真理子『行け広野へと』(本阿弥書店)は、買って、もってる。
前髪に縦にはさみを入れるときはるかな針葉樹林の翳り
なんて歌は、かなり好き。この歌のイメージの扱いは緻密で、散髪と針葉樹林だとか、柔らかいものと硬いもの、だとか、そういう「はるかな」ものを、ごく自然につないでいる。『塩と契約』では、白木蓮の花と紙飛行機、避雷針と指の照応に、これと近いものがある。
小池の評に対して、大辻が引用する大森静佳の『塔』五月号の時評(ジュンク堂で売ってた、買ってくればよかったな)では、「それほど難解とは思えない」とされている。
「水仙を見ようと身を屈め、盗み聞くためにドアに耳を寄せる。そんな風に自分が傾くとき、体内で揺らぐ水分の存在」
そう書かれると、作者の意図はそんなことだったのだろうと思う。
しかし、この歌を、ほんとうに、そのように読むことは可能か。
大辻は引用の後、大森も小池も、この歌の後半部には「自分が傾く」という体性感覚を認めているのであり、そこに世代を超えた共通理解の可能性を感じる、と書いている。
しかし、「わたしが傾くと」って、一首のなかに、文字通りに書いてあるのだから、下句は誰でも「自分が傾くという体性感覚」と読むしかないのではないか。
もんだいは、それが「水仙と盗聴、」とどのような関係があるか、ということにある。
ここから大辻の時評は、多様化した現代短歌における、読解の共通の場の模索、という重要な本題に移るのだが、それは是非とも角川『短歌』七月号を買ってよまないといけない。
初句・二句、大森静佳の読解によれば
陳述A 自分が傾くとき、体内で水分が揺らぐ
←隠喩a1 水仙
隠喩a2 盗聴
大森の評でa1、a2は、「水仙を見ようと身を屈め、盗み聞くためにドアに耳を寄せる。」と、ごく自然な風に書かれている。
語を補えば、「水仙を見ようと身を屈めたり、あるいは、盗み聞くためにドアに耳を寄せたり」などとなる。
つまり「a1、あるいは、a2などのとき、A」。
でもこの歌の措辞は、「水仙と盗聴、」であり、他に、そのような接続関係を示すことばは存在しない。「水仙と盗聴、」には、水仙アンド盗聴のひとまとまり感、水仙と盗聴が共にある状態、とか、対であること、などなどを読まざるをえないだろう。
「水仙や盗聴、」なら、わかるけれど。
「テツ and トモ」は、「テツとか、トモ」と読めず、「麦と兵隊」は「時には麦、時には兵隊」とは読めない。
ラーメンと小ライス
人と水牛
サイモンとガーファンクル(←絵面が爆笑問題と同じ)
トッポとジージョ
山と渓谷(←この「と」は、曖昧だ)
俺とお前と大五郎
(※上記の中には、一つだけ間違いが含まれています)
水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水
そしてなぜ「水仙と盗聴」がペアになっているのか、下句を読んでも、わからない。
このペアから何かを想像しろといわれて、私が想像できるのはたとえば、架空の、エスピオナージュな映画である。
外套と短剣
たぶん水仙というのは、女スパイのコードネームである。(←ひどいセンスだ)
それに、「盗聴」から私は「体性感覚」を想起できない。
今のヤング・ジェネレーションは「盗聴」と聞くと、あれだ、なんだ、う、うぇらあらぶる端末?、とか、そういう体が傾く体性感覚を想起するのかもしれないが、わたしは、なんか、アタッシュケースの中の、黒い機械を想像する。(←いつの時代だ、という話だが、おっさんだから、仕方ないんです。きぐしねいです)
また、「水仙」は「身を屈めるもの」「身を傾けるもの」のメタファーになりえるか。
オオイヌノフグリとか、ドクダミ、ユキノシタ、スミレなんかなら、水仙より、もっと丈が低い。なぜ、水仙か。
私なら、絶対に屈まない水仙に
否、
屈まない、のではない
屈めないのだ
なぜならビール腹だから
でも細いぞ、脚は
なぜ行分けすると、一瞬だけ、詩に見えるのか。それはさておき、
「水仙を嗅ぐ」なら「屈む」「傾く」のも、まだわからないでもない。
しかし大森は「水仙を見る」と書いている。歌の中には「嗅ぐ」も「見る」もない。
水仙を見るとき、嗅ぐときでもよいが、人は常に屈むか、傾くか。
そうでないなら、この読みにおける「水仙→屈むor傾く」という「体性感覚」による喩の成立は、きわどい。
と、この歌の「イメージが回収されていない」観点から書いてきたのだが、今度は逆に「読める」とふ立場から、読んでみる。
「水仙と盗聴」はすなわち意識の対象、視覚(嗅覚)と聴覚の対象である。
「わたしが傾く」とは意識の志向性の隠喩、「わたしを巡るわずかなる水」は、意識の運動への変換を意味する。表現の中心は身心のインターフェースにある。これだと、実際には屈んだり歩いたり飛んだりいろいろしてるのだが、もはや身体イメージは、一般化されてて、具体的に考えなくていい。
でも「と」はどういう意味か、なぜ「水仙」か、「協和発酵大五郎」でも「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」でも音数さえ合えば何でもいいのではないか、という疑問は残るけれど。
以上、「水仙と盗聴」という措辞に具体的な景を想起するには、あまりに飛躍がある、その主原因は、「と」にある、と考える。
もちろん服部は意図的に「と」に高い修辞的な圧力をかけ、あえて「水仙と盗聴、」というデペイズマンを意図したのだろう。つまりは、「ミシンとコウモリ傘」をやった訳である。
水仙や盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水
これなら、意味はわかるのかもしれないが、改悪もいいところ、フヌケた歌になってしまう。
「水仙と盗聴、」という圧縮表現には速度感があり、意味はわからないが、かっこいいのである。
しかし、読解不能すれすれの、きわどい歌体を狙ったわけだから、「そこがかっこいい」と言われる可能性も、「まったく手におえない」と言われる可能性も、共に許容するしかないのではないだろうか。