タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

石見の海 角の浦廻を/柿本人麻呂

柿本人麻呂は大歌人で歌聖だというけど、どこがすごいのか。

万葉集の第131番の歌を勉強してみる。
第二巻、相聞の部に入ってます。「相聞 そうもん」、 基本的にはラヴソングのことです。

詞書によれば「柿本朝臣人麻呂が、石見国(いわみのくに)に妻を置いて上京したときの歌」。
4つのパートに分けてます。分け方は、内容による恣意的なものですが、しかしだいたい「起承転結」の構成が意図されてると思う。

 

(1)
石見の海 角の浦廻を/


浦なしと 人こそ見らめ/潟なしと 人こそ見らめ


いわみのうみ つののうらみを/

うらなしと ひとこそみらめ/かたなしと ひとこそみらめ


「わが故郷、石見の角の浦あたりを、良い浦や潟がないと人は見るのだけれど…」


ここまで見ても、まだ何が主題なのか、わからないですね。

 

(2)
よしゑやし 浦はなくとも/よしゑやし 潟はなくとも/


鯨魚とり 海辺をさして/にきたづの 荒磯の上に/
か青く生ふる 玉藻沖つ藻


よしえやし うらはなくとも/よしえやし かたはなくとも/

いさなとり うみへをさして/にきたづの ありそのうえに/かあおくおうる たまもおきつも

「浦はなくても、潟はなくても、それはそれ。
(いさなとり)海辺へと、にきたづの荒磯の上に、青々と生えている玉藻は…」

 

原詩に、対句のところで改行を入れてます。

対句の軽快さと、対句になっていないところの重さとの、一種、リズム的な対比が意図されているようにも思う。

「いさなとり」は枕詞。「よしゑやし」間投詞、「えい、ままよ」とか訳されます。

石見の海の地理情報、「良い浦も潟もないと言われています」という、かなしいおしらせからはじまりましたが、「そんなの関係ねえ」と、ここでカメラが俯瞰視点から、波打ち際に一気にクローズアップ。

 

(3)
朝はふる 風こそ寄せめ/夕はふる 波こそ来寄れ/


波のむた か寄りかく寄る玉藻なす 寄り寝し妹を/
露霜の 置きてし来れば

あさはふる かぜこそよせめ/ゆうはふる なみこそきよれ/

なみのむた かよりかくよる/たまもなす よりねしいもを/

つゆしもの おきてしくれば
「(…海辺へと…)(朝はふる)風に寄せられ(夕はふる)波が岸に寄る、その波とともに、あちらこちら寄りつつ来る、(その玉藻のように)身を寄せあって寝た私の妻を、(露霜の)家に置いて、旅をしてきたので…」

玉藻は海草の美称。「〜のむた」は「〜とともに」、「朝はふる」「夕はふる」は枕詞。

(2)と同様、対句+三句の構成ですね。
(1)で「石見の海は…」という前フリがあり、(2)で玉藻にクローズアップしてきました。

冒頭から、(3)の「玉藻なす」までが妹(妻、恋人)を導く、すごく長い「」。
要約してしまえば、ここまで「海辺をさして か寄りかく寄る 玉藻なす」→「寄り寝し妹」ってだけの内容なんですね。もちろん「石見の国からはるばる旅してきた」という内容面での意味ももってる。

この息の長い構成がすごい。人麻呂はすごいです。

 

(4)
この道の 八十隅ごとに/万たび かへりみすれど
/

いや遠に 里は離りぬ/いや高に 山も越えきぬ/


夏草の 思ひ萎えて/偲ふらむ 妹が門見む/なびけ この山

このみちの やそくまごとに/よろずたび かえりみすれど/

いやとおに さとはさかりぬ/いやたかに やまもこえきぬ/

なつくさの おもいしなえて/しのふらむ いもがかどみむ/なびけこのやま



「この山道のたくさんの曲がり角ごとに、幾度も振り返ってみたけれど、


遠く遠く、私の故郷は離れてしまった。


高く高く、山を越えて来たのだ。


(夏草のように)うちしおれて、私を想っているだろう妻の家が見たい。


倒れ伏せ、この山」

「いや」は「ますます」。岩波文庫の解説によると、「夏草が萎える」という表現は、漢詩文に例があるそうです。

男女の別離を山道を越えていく情景で表すのは、万葉集によくある。

 

はじめは海の情景だったのに、結末では山の情景になってて、最後の「なびけ この山」で感情的なクライマックスに到達する。


夏草の 思ひ萎えて/偲ふらむ 妹が門見む/なびけ この山」はちょうど四句切れの短歌形になってる。対句を抽出していくと長歌に短歌的なものがあらわれる、ということに、どういう意味があるのかは、しらず。

 

 

万葉集(一) (岩波文庫)

万葉集(一) (岩波文庫)