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タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

荘子と老子 渾沌死せり。谷神も死せり

荘子内篇の最後を飾る「渾沌」の寓話は、どういう意味なのか。

【読み下し】

南海の帝を儵(シュク)と為し、北海の帝を忽(コツ)と為す、中央の帝を渾沌(コントン)と為す。

儵と忽、時に渾沌の地に相い遇う。渾沌是を待つこと甚だ善し。儵と忽、渾沌の徳に報いんことを謀りて曰く、人皆七竅(しちきょう)有り。以て視聴食息す。此れ独り有ること无(な)し。嘗試(こころみ)に之を鑿(うが)たん、と。日に鑿つこと一竅、七日にして渾沌死せり。

*「竅」は穴のこと。 *「无」は「無」に同じ。

 

【訳】

「南海の神を儵(シュク)といい、北海の神を忽(コツ)という。中央の神を渾沌(コントン)という。儵と忽があるとき、渾沌の治める土地で逢うことになった。渾沌は彼らをとても良くもてなした。儵と忽は渾沌の徳にお礼をしようと相談して、語り合った。「人間には皆七つの穴がある。それにより感覚し、食べ、息をするのだ。しかしこの者にだけはそれがない。試しに渾沌の体に穴を開けてあげよう」と。一日に一つの穴を開け、七日目に渾沌は死んでしまった。」

「試しに」がなかなかチャーミングだ。

 

荘子という思想家は戦国時代の人だとされる。すなわち『荘子』は、前漢末には知られるようになっていたが、夢占いだの妖怪話だのが混在するイカガワシイ膨大なテキストで、そこから「荘子の本来の思想ではないと思われるものを削って前漢末の劉向が内篇・外篇・雑篇52巻にまとめ、晋の郭象がさらに33巻に編集したと推定されている。

 

すなわち現在私達が読んでいる『荘子』は、本当に荘子が書いたものかわからない

もっといえば、荘周という人物が実在したかどうかもわからない。

 

しかしながら、荘子『内篇』を読むかぎり、その壮大かつ奔放なイマジネーション、シニカルでドライなユーモア、などの文体的な統一から、そういう書物を書いた一人の天才がいたのだろう、と思わされる。そいつは戦国時代にうんざりしてて、若干、性格が悪かっただろう、と思う。

(でもそれはそのように、<一人の天才の著作><荘子本来の思想を伝えるもの>の形に、他者の手によって編纂されたから、かもしれない。逆説的だ。)

 

■■取りあえず、現行の『荘子』内篇は一つの思想の表現として統一されているので、『渾沌』も、内篇全体のまとめのようなものとして読める。

 

架空の神の名前、儵(シュク)も忽(コツ)も、「一瞬のうちにすぎる/機敏」の意味だという。

 

内篇を全部読んだ人は、内篇のキー・タームの一つとして「小知/大知」を覚えてるだろう。

逍遙遊篇冒頭では、たとえば世界の北の果てから南の果てを目指す鵬(ホウ)の飛翔が大知であり、「なんであんなとんでも無いことをするんだ?」と笑う小鳥の飛翔が小知。

小知では大知を量ることはできない。

そして内篇では、人為的なはからい、小知としての機敏さや有能さ、分別知は、大知に至ることなく、自らの生命を損耗するものとして嘲笑されていた。

 

■■■さて老子荘子、あわせて老荘における最高原理は「道(タオ)」であるという。

それでは、全地球的スケールで今まさに飛翔せんとする巨鳥とは、大いなるもの、道の体現者たる「真人」の喩えなのだろうか。小鳥の知恵ではその偉大さは計れない、と言われているではないか。

事実はまったくそうではないので、ホラ吹き野郎、荘周の壮大なレトリックに騙されてはいけない。鵬の翼は高さ九万里の風に支えられているのだ、と壮大なイメージを提示した直後、話題は床に零れた水に浮かんだ塵という、みすぼらしいイメージに移るからである。

 

九万里の風に支えられるのも、一滴の水に支えられるのも、自存していないという点では同じだというわけである。ここでの大も小も相対的なものにすぎない。

鳳は大きい。しかし私たちは、より大きいもの、更に大きいものを幾らでも想像することができる。

 

21世紀の私たちの日常において、スーパーマーケットやらテレビやらインターネットやら宗教やら政治やらが、ますます盛んに、大いなるもののイメージをバラまいているけれど、そんなものはネコはカエルより大きいですな、それにゾウもネコより大きいですな、などという程度のスペクタクルにすぎない。

そしてそれらの「大きさ」は、困ったことに、私たちにとって、非常に魅力がある。『荘子 内篇』はそういう、人々にとって大切なものに、平然と後足で砂をかける、ヒドイ思想なのである。

 

そして老荘における「道」とは、そのような相対的な大いさ、イメージとしての大いさではなく、それ自体としては現前しないもの、イメージできず、けっして認識の対象にならないが、存在や認識、あらゆる大知や小知を成立させているものである。

 

 谷神は死せず。是れを玄牝(ゲンピン)と謂う玄牝の門、是れを天地の根と謂う。

 緜緜(めんめん)として存する若く、之を用いて勤(つ)きず。(老子

 

 谷の神は不死である。これを玄牝(ゲンピン、原初の雌)と呼ぶ。玄牝の門は、

 天地の根源である。永遠に存在するようで、その力は汲み尽くされることがない。

 

ここでは生命の源泉たる「道」のイメージが、高さ、大きさ、力の充実した形象たる「山」ではなく、空虚さ、欠如体としての「谷」として描かれている。

穴、空洞はむしろ虚ろであり低いことにより自然の諸力を呼び込み、それらに方向性を与える力をもつ。空洞は、イメージとして描けない。せいぜい輪郭をなぞることができるだけだ。

 

鯤やなどの壮大なイメージは、なるほど「道」のはたらきの現れではあれ、「道」そのもののイメージなどではない。「道」には目も鼻もなく、「道」の作用の現れは、時にはすごくアホだったり、時には怪物的に醜かったりする。

 

「顔に穴を開ける」というのも壮絶なイメージだが、荘子内篇には、このような身体損壊、変容のグロテスクなイメージが多く出て来る。しかも「化」とは、「道」の現れであり、肯定すべきこととして語られるのだ。マジメな儒学者が目の敵にするのも当然である。

しかしながら「死」も「生」のあるべき変化、として語られているにも関わらず、内篇に登場する「真人」あるいは「真人っぽい人物」が、「自然のままに、よく身体を保」っているのは、また微妙に論理が一貫しておらず、ますます『荘子』という書物が信用ならなくなる。

 

荘子内篇は、壮大なイメージをひけらかす。さらにはそれを相対主義で矮小化する。同じ口で絶対者について語る。つまり、論理的ではあるが、不真面目で半笑いのイカガワシイ文体で書かれている。明らかに、読者を積極的に煙に巻こうとしているのだ。

荘子の登場人物は、「私も真人になれますか?」と丁寧に聴かれれば「お前なんかにゃ、無理」と言い放つような、無礼な奴ばかりである。いずれ、ロクなもんではない。

 

■■■■■そうすると、「渾沌」の物語とは、「小知=はかない分別知」という名の二人の神が、親切心から、「あれ」とも「これ」とも名付けることのできず、「あの部分」も「この部分」もない、そんな大いなるものを、部分への分割やら、構造分析やら、カテゴリー分け、壮大なイメージの押しつけ、などなどの人体実験もしくは医学的処置によって、殺害してしまった、という物語なのだろうか。

 

そうです。

 

しかしながら谷神は死せず。道の同義語たるカオス=渾沌が死ぬわけはないではないか。だからこの形而上学的な殺人事件の記録は、端から全く信用できないことになる。証人たる荘周は、明らかにここでウソを言っているのだ。

それに、仮に百歩譲って谷神が死んでしまったのだとしても、谷神にとってそれが不幸なのかどうか、それは21世紀初頭にますます喧しい小知を尽くしても、けして知ることはできないのだ。

 

 

荘子 内篇 (ちくま学芸文庫)

荘子 内篇 (ちくま学芸文庫)