荘子、恵子と濠梁の上に遊ぶ。荘子曰わく「鯈魚(ゆうぎょ)出泳して従容たる、これ魚の楽しみなり」。
恵子曰わく「子、魚に非ず。安(いずく)んぞ魚(うお)の楽しみを知らんや」と。
荘子曰わく「子、我に非ず。安んぞ我の魚の楽しみを知らざるを知らんや」と。
恵子曰わく「我、子に非ざれば、固(もと)より子を知らざらん。
子、固より魚に非ざれば、子の魚の楽しみを知らず。全(まった)きかな」と。
荘子曰わく「請う、其の本(もと)に循(したが)わん。
子曰わく、『汝安んぞ魚の楽しみを知らんや』と云えるは、
既に已に吾之を知るを知りて我に問うなり。我、濠上に之を知るなり」と。
*鯈魚 川魚の名。 *濠水(ごうすい) 川の名
荘子、恵子と濠水の橋の上を散歩していた。
荘子曰わく、「魚がのんびり泳ぎ回ってるな。あれが魚の楽しみなんだ」
恵子曰わく、「君は魚じゃない。どうやって君が魚の楽しみを知るんだ?」
荘子曰わく、「君は僕じゃない。僕が魚の楽しみを知らないなんて、
知らないだろ」
恵子曰わく、「そう、僕は君じゃない。だから、君の心の中なんて知らないさ。
従って、君は魚じゃないから、君は魚の楽しみを知らない。Q.E.D。」
荘子曰わく、「いやいや、議論の初めに戻ってくれ。
君が『どうやって魚の楽しみを知るんだ?』って聞いたときは、
僕がそれを知っているのを既に知ってて、そう聞いてたんだよ。
橋の上で僕が知ったのは、そのことさ。」
荘子外篇の『秋水篇第十七』は、「秋水、時至れり…」に始まる、内篇に通じる雰囲気のあるチャプター。
会話は親しげだけど、かみ合わず、意味が取りにくい。
恵子は
A非B(AはBではない) → A不知B之楽(AはBの心を知らない)
という論理形式で荘子をからかっている。
荘子の2つ目の発言「恵子は僕じゃない、だから僕が魚の楽しみを知ってるかどうか、君は知らない」は、相手の論理をそのままオウム返ししただけで、荘子の主張ではない。この言葉は恵子を引っかけるためのルアーのようなものらしい。
その言葉を受けて恵子は、「僕は君ではない。だから君の心を知らない」→
「君は魚ではない。だから、君は魚の心を知らない」
という論理形式の相同性を使って、証明成れり、とする。
しかし荘子はこの論理ゲームとは別の遊戯の世界にいる。
だから、まったく非論理的に、「そもそも君には既に僕の心がわかっていた」と断言する。「それが僕にはわかったよ」。
「だから、僕は魚の楽しみがわかるのだ」と。
「魚の楽しみがわかった」ことは、論理的な思考とは関係ない、というのである。
荘子流論理学、のような話かと思いきや、荘子はまったく論理的に考えるつもりがないのだった。