タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

存在しないガラケー女、あるいはネットにおける怒りについて

2019年8月に発生した、常磐自動車道におけるあおり運転殴打事件において、

事件に無関係な人物が、被疑者の車の同乗者として、ツイッター等で多くの人々から

攻撃されるという事象が発生。
攻撃の理由は、

なんかSNSで事件映像の人物と似た服を着ていたから、同一人物

というもの。

攻撃されてしまった人物は法的措置を検討しているとのことです。

 

もしこのような「ネット上の制裁」が、「正義感の強さ」によるものならば、

これらの正義感の強い告発者たちは、自分自身を犯罪者として実名告発するでしょう。
無関係な人物を犯罪者として喧伝する、という「理不尽な暴力」を行使し、実害を与えてしまった訳ですから。
それほど正義の行使が好きならば、自分自身に対して、正義の怒りを行使することになるでしょう。

 

でも、そうはしないでしょう?
そもそも「正義」は関係なかったのではないですか。

 

車を運転して意識が高揚し、理由もなく人を殴る人。
ネットで意識が高揚し、根拠もなく他人を攻撃する人。
じつは同じことをしているのではないですか。

「正義」より先に、理由も根拠もない、暴力への欲求があるわけです。

 

それは単に動物的な本能みたいなものであって、誰の心にもあるもの。

今このブログ記事の筆者は、怒りについてエラそうに語りつつありますが

その筆者は、過去において決して怒らず、未来において決して怒らないでしょうか。

むしろ怒ります。今この瞬間怒ってないだけで。

過去において理不尽な暴力もふるったし、ひょっとしたら、未来にふるうこともあるでしょう。

 

だから、あおり運転からの殴打、も悪だし、無実の人を中傷するのも悪だけど、

 あおり運転殴打男も、ネットの、若干おバカな中傷者も、

 ある意味では、過去の、現在の、未来の、私。

いつか、あるいは、これから、自分もアホであるときがあるでしょう。

だから、自分を棚にあげて、他人だけを責められないでしょう。

そう思うのは、どうでしょうか。

 

それで、正義の暴力とは、何なのか。

他人の顔色をうかがって、
 この人を攻撃するのは、正義、
 他の人も同じことを言ってる、
 この人は悪人だから、暴力をふるっても許される、
 殺してもゆるされる、

そういうお墨付きを得たとおもって
自分の好きなように暴力をふるう

でも暴力的な犯罪者も、理不尽な暴力を実施しているとき、
 こうするしかない、こうするべきだ、
 これは正当な怒りだ、
などと思っているのではないですか。

遠い時代に、遠い国で、犯罪者が村ぐるみでリンチされたり、という話はよく聞きますね。
太ももにアザがあるから、魔女。だから火刑。とかね。


それは遠い世界の話ではない、愚かな他の人のはなしではない、ということです。

常に、今ここで、あなたの心の中でおきていることです。

 

SNSガラケー女」は実在しなかったわけです。
実在しない怒りの対象にたいして、じぶんで怒りをかきたてて、怒っていたわけです。

怒りの対象というのは、ホントは、実在しない。
それはあなたの心が作り出しているもの。だって、同じものを見て、別に怒らないでいることだって、できますから。
「この人のしてることは、良くない」とか、

怒らず、冷静に思っていることだって、できます

 

マスメディアの情報は、「大衆向け」に単純化されています。30秒でこのトピック、次の30秒でこのトピック、みたいな。
それで、意図すると意図しないとにかかわらず、怒るか、悲しむか、笑うか、単純な反応を、あおるようになっている。

 

情報は大事、というけれど、ほとんどは刺激物です。

そういう刺激を追いかけつづけて、自分自身を忘れないように。

 

だから、自分の心に気付いている方がいい。

怒ってたら、怒ってる、と知る。

悲しんでたら、悲しんでる、と知る。

楽しかったら、楽しい、と知る。

気付いていれば、それにふりまわされない。