タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

ジャズの本質は即興か

「ジャズ」の語源(いろんな説はあるが)を考えると。

 

「スムース・ジャズ Smooth Jazz」とか言われると、爆笑してしまう。

おっといけない、この話はここまでだ。

 

よく「ジャズ愛好家」の人が、「ジャズの本質は、即興の芸術なのだ」とか、言って、「即興性」を「名演」の基準としてる。

 

まあその通りなんですが。

 

でも、ある音楽が即興かどうか、というのは、その音響自体に書き込まれた情報じゃない。なんの情報もなく演奏だけ聴いて、それが即興か、というのは、決定できない。

(もちろん、フレーズなどから推測はできるけれど)

「即興であること」は、聴くことができない。

 

何十年も、いろんな『枯葉』を聴いてれば、それらのソロがことごとく違うということから、「これらの演奏は、即興だった」と結論できるだろうけれど、それはある一つの演奏の「即興性」を聞き取った、ということとは、ちがう。

 

また、あるレコードを「歴史的名盤」として、繰り返し聴く行為は、仮にその演奏が即興によるものだったとしても、そこで期待され、実際に聴かれているのは、一回的なものの再現にすぎない。そこに例えば、クラシックの聴取とのちがいがあるだろうか。

 

仮に、「即興であること」を聞き取れたとして、それが「即興でないこと」と比べて、どのように優れているか。

 

音楽は構造を持っているから音楽なので、音楽を聴くということは、構造を聴くことを含意している(それは楽理の知識の有無とは関係ない)。そしてその構造が書かれたものであろうと、即興されたものであろうと、音楽の聴取には、実質的なちがいをもたらさない。

あるユニークな『枯葉』の解釈が、スコアに書かれたものであったとしても、何も問題はないだろう。構造を作り出す、という意味においては、作曲と即興にはちがいがない。作曲は無時間的な即興ともいえるし、即興は即時的な作曲ともいえる。

 

ただ、日本語で書かれたジャズについての言説には、「即興」に比べて「作曲」を軽視する傾向がある、ように思えたりする。

 

セロニアス・モンクの曲はどれも、リズムやハーモニーについてのコンセプトが基盤になっていて、「曲自体がスイングする」。そしてその演奏スタイルは、作曲と一体を成している。モンクは、即興演奏家である以前に、作曲家だったと思うし、モンクを聴くことは、モンクの作曲を聴くことだと思う。

 

また「ジャズにおける即興性」が、ある種の「熱狂」を指していわれている、という事態も、ありえるかもしれない。

速いパッセージ、パワフルなドラムロール、管楽器のフラジオ、ギターのノイズ。しかしそれは即興者の熱狂なのか、聴き手の熱狂なのか。速いパッセージは聴き手を容易に熱狂させる。しかし、それは流麗ではあるが、ごく機械的なスケールの上昇下降にすぎない、ということもありえる。

 

むしろ、かすかな、拙いつまびきの中に、「即興性」なるものが現れている、ということも、ありえる。それまで考えたことのないことを言おうとすれば、ことばは訥弁的なものになるかもしれない。

流麗さを求めることと、何かとの遭遇を求めることは、少なくとも、イコールではない。

 つづく、かも。

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