ジャズとは即興芸術、という言説は、「本質論」に属する。
ジャズという一つの「実体」があり、それはある「本質」を備えている、という。
「ジャズファン」というのは、「ジャズ」であれば、なんでも好きな人、ということ?
ある「ジャズ」が好きで、別の「ジャズ」は好きじゃない、というようなことの方が、自然だと思う。そこに何らかの差異が存在するのであれば。
「ジャズ入門」の本には、ニューオーリンズ/ディキシー、スイング、ビバップ、クール、ハードバップ、モード、フリー、フュージョンといった「ジャズ史の総体」が書いてあって、聴くべき「歴史的名盤」が並んでいる。歴史は過ぎ去った無数の現在に対して、後から書かれるもの。だから全ての歴史は偽史であり物語ということになる。
「本質論」というのは、変な袋小路にはまりやすい思考類型だと思う。
思考の対象となるのは、「実体」ではなくて、「名前」や「イメージ」だから。
知覚された「それ」を、さまざまな物とか力とか流れとかの集まり・組み合わせに還元してみたら、もっと緻密にものごとをとらえられるかもしれない。
それで、ジャズというのは一つの「実体」か、ということ。
ソン、マンボ、タンゴ、などなど、20世紀初頭のポピュラー音楽の名称は、音楽的な構造につけられた名前で、「パンクロック」「クールジャズ」「フリージャズ」「エレクトロニカ」などの、メディアが付けた「ジャンル名」とは異質なものだった。
これらはみな、ダンス・ミュージックでもあるから、リズム構造のちがいがそのまま呼び名の違いになっていたわけだ。
「ジャズ」も本来、ダンス音楽の名称だった。そこに40年代のニューヨークで、営業後のミュージシャンの遊びのセッションからビバップが発生、これがモダン・ジャズの誕生。
「分かってる者だけが参加/鑑賞できる」秘教的な音楽性。高速化・細分化された「踊れない」(今聴くとふつうに踊れるけど)ビート。だから、「ビバップはジャズではない」という40年代の「保守的な」評論家の主張も、ある視点からは、非常に正しい。
それで、かつて40年代にフランスのジャズ愛好家を二分して「ビバップはジャズか」という戦争があった(笑)
ビバップ以後、ジャズは名称をそのままに、ダンス音楽から、即興の芸術、とみなされるようになった。
といっても、ある視点からは、であって、アメリカでは依然として、スイング的なダンス音楽でもあり、往年のポップスを名人芸で奏でる芸能でもある。一方、日本やヨーロッパでは「芸術」方面に偏った受容がされてきた。(英国はディキシーかクラブ系か、みたいな、また不思議なジャズ観があるみたいですが...)
果たしてビバップ以降の「ジャズ」は、それまでの「ジャズ」と同じ音楽なのか、別の音楽なのか。
チャーリー・パーカー『ビバップは...ジャズじゃないと思う』
ディジー・ガレスピー『いや、ビバップもジャズだよ』
ここでの「ジャズ」の意味に、現在日本で使われる「ジャズ」の意味とのズレがあることに、注意。
ビバップ以前、デューク・エリントンは客が白人だけの高級クラブで、優雅でアヴァンギャルドで妄想めいたエキゾ音楽を「ジャングル・ミュージック」と称して、演奏していた。よく考えると物凄い皮肉にも思えるけど。
マイルス・デイヴィス、チャールズ・ミンガス、それにジョン・コルトレーンは、かつて、自分の音楽が「ジャズ」と呼ばれることに反対した。これは「ジャズと呼ばれると、売れない」とかではなくって、「ジャズ」という言葉には、かつて「レイス・ミュージック」「黒人音楽ならではの、野性的なダンス音楽」である、という含みもあったから。
逆に「ジャズ」にアフロ・アメリカンとしての誇りを見いだした人もいた(というか、上記3人だって、実はそうだったりする。事態はかくもアンビバレント)。
ビバップは「白人に盗まれないブラック・ミュージック」であると同時に、「芸術」でもあった。
ビバップというのはブルースの衣装をまとったJ.S.バッハ、みたいな音楽で、実質はけっこう西洋音楽。バップ以降のジャズミュージシャンの中には、リズム・アンド・ブルースを単純な音楽として、低く見る風潮も、あった。だいたい、素材となるティンパンアレーポップスというのは、おもいっきり白人音楽だし。
「ブラック・ミュージック」であるということは、そこに黒人独自のビート、独自の音色、独自のセンチメントがあるということ。この視点からは、ジャズは、リズム・アンド・ブルースなどと、地続きのものということになるし、リズム・アンド・ブルース、アフリカのポピュラー音楽、あるいはラテン音楽などの総体の中に位置づけられる。
たとえばジェームス・ブラウンの音楽、リズム・アンド・ブルース、ソウル、ファンクなどと呼んでもいいけど、それは「即興的」であるけれど、「芸術」ではないだろう。つまり、未知のアイデアを提示することが目的ではなく、その場にいる聴衆、演奏者との相互作用、コール・アンド・レスポンスのための即興。
そうした相互作用は、ビートの反復に、細分化されたパルスをその場の全員が体内のクロックで共有していることに、基づいている。次々に未知の展開を繰り出す音楽では、そうした共有は成立しない。芸術というより、芸能。
一方、「芸術」であるということは、人種性別国籍に関係ない、普遍的なものである、ということでもある。それはマイノリティの文化にとって、解放でもあるし、またそれが自分達だけのものではなくなることも意味する。
ビバップにおいてはマイノリティ文化の自立・解放へ向かう、2つの回路、民族主義的な回路と、コスモポリタニズム的な回路の2つが顕在化していた、といえる。それらはある意味、矛盾・対立している。
ビバップのブラック・ミュージックとしての側面は、後の公民権運動の時代に、フリー・ジャズとして前景化する。しかしまたビバップには、ギル・エヴァンスなど多くの優れた白人音楽家、音楽ファンも貢献していた。逆に彼らにとってビバップの世界の一員となることは、ある種の解放でもあった。黒人音楽とか白人音楽とか簡単にいえない、という側面もある。つまりは、アメリカ、多民族、多文化社会の音楽なわけで。
まとめると、こうした矛盾・対立する様々な力による、「ジャズ」の奪還が繰り広げられていた、その運動の総体が「ジャズ」と呼ばれている、ということで、本質論というのは「ジャズの定義」としてあんまり有効ではないのではないか、と。
ニューオーリンズ/ディキシー、スイング、ビバップ、クール、ハードバップ、モード、フリー、フュージョンとかいう一本道の「ジャズ史」というのは、ほとんど何も意味していない、と思う。
事態はかくもアンビバレント。
チャールズ・ミンガスは晩年、ホワイトハウスに招かれて、涙した。
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