■「デレク・ベイリー インプロヴィゼーションの物語」(ベン・ワトソン著, 木幡和枝訳, 工作舎, 2014)を読んだ。
訳文の読みやすさは、長い親交のある著者ならではのベイリーへの深い理解からくるものだと思わされました。訳者後書きの、この本は演奏についてのものであると同時に存在学的なものでもある、といったくだりは、この大著の完璧な要約だと思います。
英国のギタリスト、デレク・ベイリーは、既存の音楽語法に依らない即興演奏(ノン=イディオマティック・インプロヴィゼーション)の開祖的存在として知られます。
DEREK BAILEY - Playing For Friends on 5th Street - YouTube
著者のベン・ワトソンはフランク・ザッパ研究で知られる人だそう。
シチュアショニストに影響を受けた人で、著者の「即興」への関心は、資本主義社会における商品フェティシズムへの攪乱、という側面からきています。
それは必ずしもベイリーの意図と同じものではないでしょうが、ワトソン氏は、自分の批評的な意図を、ベイリーの哲学の客観的記述を混同するようなことは、していません。
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私がはじめて聴いたのはジョン・ゾーン、ジョージ・ルイスとの『ヤンキース』というレコードで、腰が抜けるほどびっくりしました。
ゾーンは、狩猟用の鳥笛を水に浸けて「ほげげげげ」とかやってるし、ジョージ・ルイスのトロンボーンは突発的に進軍ラッパみたいなフレーズを吹くが、誰一人進軍するものは、いない。
そして、はじめて聴いたベイリーの演奏は「ギターを押弦する音」でした。
確かにそれも「ギター演奏」には違いない。これらの音が、散発的に聞こえてきました。
メロディもハーモニーもリズムも、技巧も、インタープレイも、なにもない。
「高尚な前衛音楽」として、何かの形而上学的な思考を読み取れ、とかいうことか?
それにしては脱力しきった、とぼけた音響、お茶目すぎるアートワーク。
何をどう聴いて楽しめばいいのでしょうか?
今手元にないですが、『solo guitar vol.1』には、たしかミシャ・メンゲルベルク、ウィレム・ブロイカー、ギャビン・ブライアーズらの「作曲作品」がありました。
ミシャの曲は、ギタリスト、ターンテーブリストの大友良英氏もラジオでその衝撃を語っていた曲。
「ぽっぴぽっぴぽー、ぽっぴぽっぴぽー」という単音のファンファーレの後、素っ気ないコード・ストロークがあり、その後はエフェクトのかかった6弦の単音が、一切の変化なしにビヨビヨと続くだけの曲。
ブライアーズの曲は、両手で別のギターを弾く曲で、たしかウィレム・ブロイカーの書いた曲は、「一生、音階練習をしつづける男」のスケッチでした。
「書かれた音楽」というのは、デレク・ベイリーにとってこういうものらしい。
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この本でデレク・ベイリーが語っている哲学は、結構シンプル。
巧みなジャズギタリストとして「営業」を続けていたベイリーは、「同じことの繰り返しは、つまらない」と思い、単に何かを繰り返すことをやめてしまいました。
メロディも、ハーモニーも、リズムも、ジャンルも、ベイリーの耳には、既に起こってしまった何かの、拡大再生産でしかなかった。飽きちゃったわけです。
しかしまたベイリーは、「ギタリスト」であることや、「より良い音楽」を追求することをやめようとは思わなかった。
「ジャズをやるなら、高い基準でやるべきだと思っていた」「本場のジャズの物真似はいやだった」。
自分のギターで「いわゆる音楽」を鳴らさないために、ベイリーは、ギタリストでありつづけました。素早くイレギュラーな指の動きの訓練や、特殊奏法の開発。
つまりベイリーにとっての即興演奏とは「自由に演奏すること」ではなかった。
ベイリーの音楽は「高度な技術」を聴くための音楽ではなく、ジャズ的な「インタープレイの妙技」を聴くための音楽でもない。情念や思想の表現でもない。
「何かを聴くための」という、音楽にまつわりつく共同幻想も、拒否されているし、
「マジメな前衛芸術」ということすら、捨てられていました。
(ウケ狙いのギャグでもなくて)
音楽でありつつ、一切の音楽から抜け出ようとすること、そこには「笑い」もある。
「テレビで、頭に電極をつけてバッハを弾いてるのを見た... まじめな音楽というのは時に滑稽なのだが、なんでみんなそれに気づかないんだろうか?」
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即興というのは、聴くことができない。音響情報じたいに即興かどうかという情報はない。では何のための即興なのでしょうか?
ベイリーにとっての即興とは、未知のものと遭遇すること、驚くこと、でした。
デレク・ベイリーは、そういう驚きに向けて、自分なりに、自分自身を準備しつづけたのであって、他の人にとってのインプロヴィゼーションとは、また全くちがうものになるかもしれない。
驚きにそなえて自分を準備すること、だから、ベイリーにとっての即興とは、単に楽器で音を出すこととは、違う。それ以前のものです。そうしたことをさして訳者の木幡氏は「存在学の本でもある」と言っているのでしょう。
本書でベイリーが語る思想を敷衍すれば、もしある音楽を聴いて、そこに驚きを感じられたら、それもすでにインプロヴィゼーションの行為、といえるだろう。それは古いジャズやロック、クラシックを聴くことの中にあるかもしれない。聞き慣れたと思ってる音楽の中にも、未知のものを見つけることだって、ある。
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ベイリーの自著『インプロヴィゼイション 即興演奏の彼方へ』よりも分厚いが、むしろわかりやすい本だと思います。
「実験音楽みたいなのって、メロディもリズムもないし、何を聴けばいいのか、わからない」という人にも、おすすめの一冊。
私はこうした音楽を、楽しいから、メロディとかハーモニーは、(時には)人の感情をコントロールする装置だから、自分の無意識的な固定観念に気づかされることは、おもしろいし、それが「笑い」の根源だから、聴く。
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興味深い記事としては、付録1のWire誌のブラインド・フォールド・テスト(前情報なしにレコードを聴いて感想を述べるテスト)。
最初の数枚は「これは...レコードだ」みたいな身も蓋もないことばっか言って、ワトソン氏に「当たり前です!」と怒られるベイリー、高柳昌行ニューディレクションがかかると「(作曲された音楽とちがって)途中でもうわかった、って、聴くのをやめる理由がない。これは即興だから、大好きだ」と発言しています。そんな発言からも、ベイリーが即興に求めてるものは、伝わってくるように思います。