タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

仏教とは、何なのか

仏教の本質が何かということは、仏教にあって、他の思想にない部分を見ればわかる。
2500年くらい前のインド諸思想のもんだいは、輪廻からの解脱だった。

 

(1)輪廻論〜業論 仏教出現の時代背景
輪廻論はつまり、「私の生には意味があるのか」といいかえられる。
生というのは誕生と死に挟まれた、たった一回の、有限な時間・空間における事態だ。

もし、わたしの生が、その先後となにも関係を持たないなら、どこで何をしてどう生きようが、すべて良い、ということになる。全ては無から無にかえるものにすぎない。

逆にいえば、この生の中で生じたあらゆる行為、ことばには、何も意味がないということになる。

しかし、全て良い、何も意味はない、といったところで、誰の生にも、無数の喜びや苦しみがあるのが事実であって、それらの本質的な意味というものを、人は考えてしまう。だから、この生には意味はない、現は夢、といったところで、何の答えにもなってはいない。

 

はたして、生という一回的な事態の意味というのは、その中で費やされてしまう、はかないものなのか、それとも、それを超えたなにかの意味を見いだせるのか。
こういう問いは、古代インドならずとも他の時代、他の文化圏の誰もが考える。
古代インド人は、この生が、誕生と死の先後にわたっていると見て、それを輪廻という概念であらわした。同じもんだいをたとえば西アジア一神教は、神の元から発し神に帰るあいだのプロセス、ととらえた。

 

しかし、ただ同じような生の苦楽が無限に反復しているならば、そこからまだ生の意味は生まれない。どのように無限反復に意味を見いだせるか。

古代インド解脱論の基本構図は、行為はその結果(業、カルマ)を生み、それが魂に付着していく。これは魂に重さを加える汚染であり、カルマを浄化することで魂は本来の自立性・清浄性を取り戻す、というものだ。

 

(2)存在論と意識論 仏教の独自性

古代インド解脱論で魂とカルマは、一種の、物質的実在として捉えられている。
物理的な汚染を取り除くためには、物理的な行為が求められる。そのために動物の供儀や、水浴、礼拝、不殺生の行為、ヨーガによる心身のコントロール、などが行われた。

 

シャカ族のゴータマという人が提示したのは、物質的な存在、物理的な行為の問題には、「こころ」の問題が先行している、ということだ。認識論的、というと、なんとなく書斎での営為のようにも聞こえる。井筒俊彦の『意識論』という言い方が、うまい言い方だと思う。

 

わたしたちは、存在をこころでとらえる。行為やことばをこころの動きによって生み出す。

仏教経典にはよく呪文のように、五(六)つの感覚器官(眼耳鼻舌身および意)、その対象(色声香味触および法)、それぞれが構成する感覚世界、が列挙されているが、これは神秘的な呪文などではなく、わたしが感じている「世界」とは、この色、この音、この香り、といった感覚の集合にすぎない、という話なのである。

感覚器官を「門 ドワラ」という。わたしたちはゲートから入ってきたものを知る。ゲートの外を知るのではない。仏教のいう「こころ」というのはスピリチュアルな、神秘的な話ではなく、逆にきわめて日常的な、当たり前の体験に根ざしている。

輪廻だの神々だの幽霊だの精神世界だのが存在しようがしまいが、それらは全てわたしのこころにおいて現れ、わたしのこころにおいて見られた現象なのであり、分析すれば色声香味触法の集合であり、花瓶や電信柱と何ら変わらないものである。

 

もちろんゲートがゲートであり「入ってきた」以上、なんらかの外部は存在することになる。仏教は、世界は存在しない、とはいわないが、外部に向かって追い求めない。

家門を入るものは家珍に非ず、である。神秘体験などを求めることも、家宝でないものを求めることである。そして何かを求めるこころは妄想を作り出す。

仏教は何かを得るものではない。

 

宇宙の果てや永遠というものは、空間的・物理的に有限な生において知りつくすことができない。だが、世界のすべてがそこにおいて現れる、私のこころは、知りつくし、より良くすることができる。「一切智」とはそのようなことでしかありえない。

 

ほぼ全ての思想は物質的な現実に依拠しているか、あるいは物質的な現実のアナロジーに基づいている

神々が崇拝されるのは、彼らが存在世界を創造し、それ故に世界に対して領有権を持つからである。つまりそこでは所有、支配の概念が前提となっており、現世で富や武力、権力により支配する王侯が、被支配者から崇拝されるのと、実は同じ構図なのである。

王侯から権力を奪えば、残るのはただの人間、ただの生命にすぎない。仏教は他の宗教の神々を否定しないが、神々を生命の一種と見る。

 

仏教の兄弟的な思想であるジャイナ教は、不殺生(アヒンサー)の実践を重視する。小さな虫一匹たりとも殺さぬよう、柔らかいほうきで、やさしく辺りを払う。不殺生の重視は仏教もジャイナ教も同じだが、仏教は、行為を制御することより、その行為を生み出すこころを育てることこそ重要、と見る。

 

世界とはこころにおいて生起する「現象」である。
わたしたちのこころは、カメラのようにありのままの実在を映し出すものではなく、本源的な欲望によるバイアスをかけた形で世界を生起する
本源的な欲望とは、生命が生命を維持するための、快を求め不快を憎む反応である。

思考やイメージより速い、とは、そのような意味である。
しかしこころと世界とは同じものではなく、世界は意のままにならない。だから苦しい。

 

(3)こころの統御 ヨーガ、禅

そこでわたし自身のこころをつかまえ、コントロールすることが必要になる。
わたしのこころの動きは、思考やイメージより遙かに高速であり、だから、今この瞬間のわたしのこころを、言葉やイメージに基づく哲学的な営為や近代科学ではとらえることは、できない。

 

そこで、古代インドの身体技法ヨーガがでてくる。身体の平静がこころの平静にフィードバックされ、安定したこころは、こころ自身の動きをとらえることができる。またこころの安定のためには、日常的な生活態度を整えることも重要であり、そこで戒律を守ることは必須となる。生活における具体的な実践を離れて、心の静止はありえない。仏教の戒律とは宗教的なみそぎや苦行とは異なる。

 

仏教がヨーガによる心の静止(定、サマーディ)において行うのは、「神秘体験」や「無我の境地」への到達などではない。

神秘体験とはイメージにすぎず、瞑想に「神秘的なもの」を求める人が自分でそこに持ち込んだものにすぎない。自分のこころが自分をだましているのである。修行や戒律にこだわり修行マニアになることは戒厳取(かいごんしゅ)といって、戒められている。

それは修行によって徳の高さとか神秘だとか超能力だとか悟りだとか、外に何かを求めることだからであり、結局お金やモノを欲しがるのと同じなのである。

 

心の安定状態において仏教が行うのは、こころ、あるいは、そこにおいて生起する世界のあり様を、観察し、そして分析する行為である。
心を安定させることを止(シャマタ)、そこで行われる観察を観(ヴィパッサナー)と呼ぶ。観察/分析が体得されたとき、それは智慧と呼ばれる。

 

(4)さとり
「こころ」の観察は、このような身体的な実践として行われるのであり、したがって仏教は哲学とは異なる。ある意味では、武術やスポーツに近いということもできる。フリードリヒ・ニーチェの「思想=生理学」の元ネタは仏教だろう。

世界を生み出す「わたしのこころ」を知ることが仏教の問題設定であり、それが達成されれば仏教の活動は終わるはずである。それを俗に「さとり」と呼ぶ。

 

スポーツのトレーニングを始めた人がオリンピック出場について思い悩むことには、何の意味もない。仏教というと、悟り、とか、空、とか、無の境地が云々されるが、これらの言葉を語ることは、無意味である。不立文字の禅宗ならずとも、古い経典でも「知りえないことを語る」ことは戒められている。

さらにここには、ある「状態」を「獲得する」という非仏教的な観念が入り込んでいる。仏教修行は、外部に何も求めず、何も獲得しない。

仏教とは何かといえば、「自分自身を知る」ことであり「諸悪莫作・衆善奉行(悪いことをやめて善いことをする)」ということで十分だと思う。

 

(5)再び存在論へむかう仏教

シャカ族のゴータマ氏の死後、仏教は多くの形態に分裂する。スポーツはよほどの天才でもない限り、指導者なしで学んだり、「入門書」から学ぶことはできない。


大乗仏教は、空思想や華厳思想、唯識、禅などの諸形態を持ち、また観音信仰や題目などの、宗教化した形態もある。またチベット仏教は、古い経典から後期仏教のタントリズムまでを総合する形で発展した。

一方、東南アジア上座部は明らかに仏教の古形を残している。しかし2500年前のままという訳ではない。ゴータマ氏在世時は直接指導を受けることができた部分を、テキストによって学ばなければならなくなったからである。地理的な拡大も原因である。

 

大乗仏教」に対して本来の古形を残した仏教は大乗により「小乗仏教」と呼ばれてきた。その違いは、大乗仏教は自分だけの悟りを求めるのではなく、一切衆生の済度を求めることにある、と言われるが、それは核心をついていないと思う。

大乗以降の仏教とゴータマ氏の思想の大きな違いは、大乗はゴータマ氏の対象とした「こころ」に留まらず、「世界」あるいは「存在」の問題を持ち込んだ点だろう。


ゴータマ氏は、存在世界を知りつくすことはできず、存在世界全体を作り替えることはできない、という極めて合理的な視点を持っていた。変えられるのは存在する世界ではなく、わたしのこころだけである。そして世界とはこころにあらわれた世界なのである。

大乗のいう「一切衆生」つまりあらゆる生命・世界全体を、どうやって有限な認識が、とらえることができるか。
合理的には、そのようなことはできない、というべきであろう。認識できないものを語ることは、そもそもゴータマ氏の教説では御法度である。その意味で衆生済度という思想は、神秘主義であり、宗教化であり、ゴータマ氏の問題設定からの逸脱、ともいえる。

 

大乗の理論的基盤となっている「空思想」は、世界における「有る」「無い」の対立を無効にする。しかし有る無いを論じた時点で既に、存在論なのである。

 

しかしそれでも人は、あの人やこの人、路傍の一本の草花について、その存在の意味について、語りたい。大乗仏教は、そうした問いに答えるべく、ゴータマ氏の「こころ」の思想を守りながら、その思想領域を拡大しようとしたわけである。正統的であることと、思想的な価値は、別の問題である。

パーリ語経典に見られるゴータマ氏の思想は、付け加えるもののない一つの完結した体系として完成している。大乗はそれをベースに、別の問いに対する別の答えを探求してきた、ということだと思う。

 

(6)現存宗派の共通点

さて上座部も大乗も、密教も、これらの仏教は全てゴータマ氏の入寂後、1Cごろのアカデミズム化/宗教化した仏教(部派仏教)からの流れという意味では、実は根底に共通するものをもっている。唯識の論書と上座部の論書を読めば、それらは大してちがいはない。一見「本来の仏教」と異なるように見える専修念仏なども、上座部の修行や在家の人向けの護呪(パリッタ)に似たものがある。

 

禅は大乗仏教であるが、上座部と近く感じられる部分が多い。
理論的な根拠も実践についてのテクストも違うために、それぞれの実践は異なったものになっているが、禅の実践は、こころが動く刹那をとらえることであり、つまりゴータマ氏の問題設定を先鋭的に踏襲しているといえる。

犬に仏性はあるか」などという禅問答もそうした実践である。
「仏性」は大乗の概念で、あらゆる存在にある「仏としての本質」を意味する。

先に、物質的な魂に物質的なカルマという性質が付着する、という古代インド思想の魂概念について述べた。魂に「仏の本質」がある、という言い方は、仏教以前の存在論の侵入を思わせるものがある。
部派仏教時代には、「プドガラ」という一種の魂の存在を主張した学派が、他学派から否定された。物理的な魂の存在を論じるなど、仏教ではないというわけだ。しかしそんなことは枝葉末節であり、先に述べたように、大乗仏教自体が認識論を存在論に拡張する、大胆な試みなのである。

この公案は、有るか、無いか、という物理的なことを問題にしているわけではないだろう。有る、無いは、仏教と関係がないからである。

では有/無の問いを無視すればよいのか。しかし、僧侶として「仏の本質」について問われているのだから、その問い自体を疎かにはできないはずだ。

そこで抜け出ることのできないダブルバインド、二重拘束が発生するわけである。

本当に問われているのは、その問いを突きつけられた刹那の、こころの動きそのものだ。つまりそこで、存在論は、わたしの心の働き、として端的に示され、仏教の歴史を刹那に貫徹するということになるだろう。