タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

暴動鹽のごとくあたらし剛毛のツェッツェ蠅棲む國の處女に/塚本邦雄

ぼうどうしおの/ごとくあたらし/ごうもうの/つぇっつぇばえすむ/くにのおとめに

塚本邦雄

 

理由は忘れたけど何年もまえ、図書館で『現代短歌体系』(三一書房)七巻を手にとった。小学生のころ、親父の蔵書の『全集 現代文学の発見』の『言語空間の探検』という巻で『装飾楽句』は読んでたはずだけど、そんなことは忘れていて、たまたま開いたページにこの

 

 暴動鹽のごとくあたらし剛毛のツェッツェ蠅棲む國の處女に

 

があって、それで短歌に関心をもつようになった。それまで短歌というのはよくわからない、写経と身辺雑記を合わせたようなものだと思っていたのだった。同じ巻には岡井隆と葛原妙子も載ってて、ますます短歌というのは、(少なくとも1950年代には)なにやらただならぬことになってたらしい、と思ったのである。

 

初句七文字は音数を指を折って数えたからすぐわかった。

しかし、暴動が「塩のごとく」鮮烈である、という直喩がいきなり意味不明である。

また、二句切れで三句に序詞を置くのは、古典和歌の一つの定法だと感覚的にわかっていたが、その序が「剛毛の」であり、「ツェッツェ蠅」に掛かっている。

睡眠病を媒介するトリパノゾーマの宿主としてツェツェ蠅は知っていたが、しかし「ツェッツェ蝿」である。この妙に楽しげな「ッ」は、どこから飛来したのか。

 

それは定かではないが、そのうちわかってきたのは、第五歌集『緑色研究』には「塩」などの食材を含む日本の日常のオブジェを、それとはかけ離れたオブジェと衝突させる方法が多用されていること。また、味覚を含む共感覚による喩も塚本の重要な手法であること、など。

 おおはるかなる沖には雪のふるものを胡椒こぼれしあかときの皿

 男色より酢よりさびしきもの視つめ醫師のひとみのうちの萬緑

いわれてみれば、塩は白さにおいても、辛さにおいても、岩塩や塩の結晶という姿においても、確かに「あたらし」なのである。こうした事物の本質の把握に基づく表現は、アララギ派の歌とも、それほど遠い印象は受けない。それが暴動の形容になってるからヘンなだけで。

 

それから『緑色研究』に熱中するうちにわかってきたのは、この歌人はわりと「ヘンなことをいいたいおっさん」なのではないか、ということである。

 

照る月の黄のわかものの尿道カテーテル*** 聖母哀傷曲

てるつきの/きのわかものの/にょうどうの/かてーてる /すたばとまーてる

これは、ラップにしたら、相当かっこいいのではないだろうか。

 

『緑色研究』の段階では、古典和歌の影響はまだパロディ的なものに留まっているようだ。

 

17か国が独立した1960年をアフリカの年と呼ぶが、この歌が収められた第五歌集『緑色研究』は1965年の発行。

ツェツェ蝿棲む国の暴動、と聞いて思い出すのはエレクトロの先駆の一つとなった坂本龍一畢生の"Riot in Lagos"、というより、そのインスパイアソースとなったフェラ・アニクラポ・クティ(1938-1997)の音楽のこと。

 

フェラ・クティは音楽による政治批判を続けていたが、遂にナイジェリア軍を「腐敗した政治家の命令で動くゾンビ」呼ばわりした"Zombie"で軍の怒りを買い、1977年に自宅に築いたコミューンを軍に包囲され、家族や友人ともども暴行を受ける。フェラの母はこの時の負傷が元で後に死去している。フェラは母の棺をナイジェリア大統領の家の前に置いた。

 

現実の暴動は塩のごとく、というにはあまりに苦いものではないだろうか。しかし言葉のまぼろしの上だとしても「暴動の塩のごときあたらしさ」を持たなかった国の一つが、たとえば日本という国、そういう歌としても読めるのかもしれない。