タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

ぞろぞろと鳥けだものを引きつれて秋晴れの街にあそび行きたし/前川佐美雄

前川佐美雄の第二歌集『大和』を買ったぜヒャッハーという話、書いた。さっき。

それで、
「前川佐美雄」で何気なく検索してみたら、第一歌集『植物祭』所収の歌が中学校の教科書に載ってる?らしく、どう解釈するのか?という質問がヒットしました。

それで、この歌を解釈してみました。

 

●歌体

 ぞろぞろと鳥けだものを引きつれて秋晴れの街にあそび行きたし

 ぞろぞろと/とりけだものを/ひきつれて/あきばれのまちに/あそびいきたし

 

意味はそのまんま、
 ぞろぞろと鳥や動物を引き連れて、秋晴れの街に、遊びに行きたい。

これは、一首全体が一つの文だから、句切れなし。「行きたし」ははっきりと文語調ですが、現代口語として読めるように作られています。

口語短歌はけっこう古くからあります。前川佐美雄は1930(昭和5)年の第一歌集『植物祭』から、シュルレアリスムの影響を受けた口語短歌を展開してたひと。


 なにゆゑに室は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす(植物祭)
 窓を破つていきなり鬼だいや雪ださあわからないわしは分らない(大和)

 

『植物祭』『大和』は新学社近代浪漫派文庫の39巻に入ってるようです。

また筑摩の『現代短歌全集』6巻、8巻にも収録されてますが、これは古本しかない。

 

前川佐美雄/清水比庵 (近代浪漫派文庫)

前川佐美雄/清水比庵 (近代浪漫派文庫)

 

 
●語釈
・「ぞろぞろと」副詞、擬態語。大勢の人などが連なって動く様子。
 これも口語的なことばで、それを基本的に文語定型詩である短歌に使って、口語
 的な、力が抜けたようなニュアンスを出してます。口語短歌が当たり前になった
 時代には、このような効果はわかりにくいかも。

・「鳥けだもの」は、「鳥獣(ちょうじゅう)」「禽獣(きんじゅう)」などの、
  和語への言い換え。 ex.「鳥獣戯画」「鳥獣保護法」「禽獣にも劣る」

 「けだもの」「けもの」は単に「動物」という意味ですが、「人間でないもの、
  人間以下のもの、非人間的、野蛮」みたいなニュアンスもあります。

・「秋晴れの街に」四句は8音で字余り。字余りはリズム的な重みを増す、あるい
 は、そこで歌のリズムがスローダウンする効果があります。

(追記:8音句は通常の7音の長さで読まれる傾向がある、つまり少し早口になるのね。だから、そこだけ「加速」するともいえるんだけど、加音のぶん、ちょっとリズムのひっかかりができるから、「スローダウン」と書いた)


 「秋晴れ」は、秋の空の澄み切ったようす。
 「街」は「街路」「街区」のように、大きな町の栄えてる一区画、○○通りとか
  いう意味。すなわち小さな町じゃなくて、都会のイメージ。

・「遊びいきたし」
 複合動詞「遊び+いく」とすると日本語として不自然なので、「遊びにい
 く」の省略、くだけた口語的な言い方だと思います。

(追記:PUFFY『渚にまつわるエトセトラ』(作詞井上陽水、作曲奥田民生)「カニ食べ いこう」みたいな。例が古い?)

 四句8音字余りに対して、
 また字余りが続くと、リズムが悪くなるので、五句は助詞省略で7音定型におさ
 め、リズムの流れを整えている。と同時に、口語の軽やかさを打ち出していると

 考えられます。

 「たし」は願望の助動詞で文語調ですが、同じ意味の「まほし」が書き言葉であるの

 に対し、「たし」は話し言葉的に使われました。文語の口語。
 四句、五句の、秋晴れ、遊び、「ア」音の頭韻になっています。
 科学的な言い方ではないですが、一般に「ア」音は明るい響きと言われます。

●歌の意味
「秋晴れの日に街に遊びにいく」というのは、晴れやかで楽しいことでしょう。
そして、一人で遊ぶより、友だちと遊ぶ方が楽しい。

たとえばこれが、
 ぞろぞろと友だちみんな引きつれて秋晴れの街にあそび行きたし
という歌だったら、なんのことはない、普通の日曜日の光景です。

しかし歌の語り手(それが作者の前川さんと同一人物かどうかは、保留しましょう)は、「鳥やけだものを引き連れて」遊びに行きたい、のです。
人間ならぬものこそ、わたしの友だちにしたいのだと。

さて、「禽獣にも劣る」という慣用句などの「鳥けだもの」のニュアンスを含めて考えるなら、「人間以下のもの」ということになります。語り手は自分のことを卑下している、ともとれます。

といって「人間以下」というのは、人間から見て、の話です。「鳥けだもの」や、その友だちから見れば、人間の方こそ、「鳥けだものにも劣る」存在かもしれません。

ここで、この歌のなかに、
 「街」=人間の世界、人工の世界、など
 「鳥けだもの」=自然、など
という、イメージの対立を見ることができます。
そして、歌の語り手は、人間ではなくて、自然に属するものを友だちにする、と言ってる。

「作者は文明批判をしてるのかな?」「人間の世界を否定してるのかな?」と思うのは、気が早すぎます。
なぜなら、下句は「秋晴れの街に遊びに行きたい」といっている。

語り手は都会だとか、人間の世界だとかを、離れたいとは言ってない。人間ならぬ鳥けだものを友だちにしたいと言っているけれど、しかし、人間の世界の外側と内側のあいだに、どっちつかずに、いるんです。

孤独とか寂寥とかそういうことを感じている日々、その中にも「秋晴れ」の日はあります。「遊びに行きたい」という華やいだ気分を感じたりもする。
そういう微妙な気分を表した歌だと思われます。