タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

マックス・ウェーバー『職業としての学問』(尾高邦雄訳,岩波文庫)

子供のころから本棚にあったけど、さいきんはじめて読んでみた。

書名がめちゃくちゃ、つまらなそうだったから。ところが、すごくおもしろい本だった。これは10代、20代のうちに読んだ方がいい本。
以下、基本的に引用は岩波文庫からですが、漢字の閉じ開きなどを任意に変えています。webだと読みにくいので。

 

 タイトルは、何か学問を職業に選ぶことについての教訓話、若い学者の心得、みたいな本に見える。

それは、実際そうなので、これは、第一次世界大戦後の1919年1月にミュンヘンで、世界戦争後の混迷する世界で学問に希望を燃やす若人たちに対して行われた、講演記録。


冒頭から、ドイツとアメリカにみる学者の雇用形態という即物的な話がつづき、若き学徒たちの、学問へのファンタジーをデストロイしようとしてるわけです。その講演は「脅かすような」印象を与えた、とされています。

しかし、この本の内容は、学者の卵のためだけのものでもないし、科学だけに限った話でもない。

 

現代の学問はかつてみられなかったほどの「専門化」の過程にさしかかっている」(P.21)。
社会自体が高度に専門化しているのであり、また、世界全体の意味を保証するような価値感 ――宗教的な世界観など―― は、現代の世界では、背景に追いやられている。
われわれは世界の全体像というものをもっていない。近代科学は、そのような分断された世界の一部であるわけです。

そういう世界で、ひとびとは生の一回性、わたしの唯一性、「個性」や「体験」を求める。

ウェーバーはいいます。

学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その「仕事」に仕える人のみである」(P.27)


科学は世界全体の意味をあたえるようなものではない。

ある写本のたった一行の解釈に全身全霊を打ち込むこと。それは単なる「仕事」なので、学問とはそうした「仕事」の集積によってのみ成し遂げられる。

 

それでは科学の営為とは、究極において無意味なものか。ウェーバーはその営為の意味は、「欲しさえすれば、どんなことでも常に学び知ることができるということ。したがってそこには何か神秘的な、予測しえない力が働いている道理がないということ

このことは魔法からの世界解放ということに他ならない」と語る(P.33)

 

迷信からの解放、といえば、なんだか素晴らしいことに思える。
今日でも、科学的に間違った信念を批判し、世界をより良くすることに情熱を傾けている人が見られるけれど、ウェーバーは、べつに魔術が悪いとか、現代は迷信がなくなって最高だぜ、とか言ってるわけじゃない。むしろ、それは、宿命のような感じ。

 

(われわれは)インディアンやホッテントットのような未開人よりもよく自分の生活条件について知っているといえるだろうか。おそらくは、否である」(P.32)

 

彼は、さらに再び知の意義についての疑問を書く。


トルストイの)頭を悩ました問題は、結局、死とは意味ある現象であるか否かという問いに帰着する。彼はこれに答えて、文明人にとっては――否である、という
無限の「進歩」の一段階をかたちづくるにすぎない現代人の生活は、その本質上、終わりというものをもちえないからである

 

そして、科学は、生死のもんだいに、答えを与えることはできない。

ここで論題は、学問の価値から、現代人にとっての知の価値、にうつっていく。
ウェーバープラトンルネサンスからの科学史を引き、近代以前の科学は真・善・美といった超越的価値を解き明かすためのものだったと述べる。それに対して今日の科学は、「むしろこの世界の「意味」などというようなものの存在に対する信仰を根本から除き去ること」だという。(P.36~)

 

ここらあたりで話の流れは蛇行していくのだが、ここで神秘主義批判がある。
非合理なものを無理矢理合理化しようとする現代の浪漫主義は、結局矛盾におちいる。このようにして合理主義からの離脱をめざす試みは、実はこれを試みる人たちが考えているのとはまったく反対の結果に導くのである」(P.42)


神秘は神秘のままにしておくのが正しいのに、すすんで「科学的」な意匠をまとうことで、自ら混乱を招いてしまう。

 

ウェーバーの「学問の意義」についての結論は、「それは無意味な存在である。なぜならそれは我々にとって最も大切な問題、我々は何をなすべきか、いかに我々は生きるべきか、に対して何事をも答えないからである」というトルストイの身も蓋もない言葉である。
学問は世界の意味、生の意味といった実存的な問いには答えることができない。またそれに答えようとすれば、学問は学問ではなくなる。先ほどの科学ぶった神秘主義の逆のことが起こる。

宗教的なものは超越的な価値、実存的な問いへの答えを提示することに意味があるのだから、合理主義と混ぜると、最悪のテイストに。新興宗教とかが今でもやってる。

もし何か新しい宗教の再興を、しかも新しく新正の予言なしに画策するならば、その結果は、実質的にはやはり同様の出来損ないに終わり、しかも前の場合よりも更に悪い結果を引き起こすこととなるであろう」(P.72)

 

それで、科学的な思考がすることは、価値判断は置いておくこと。明確性を追求することであり、明確であることによって、さまざまな「価値の神々の争い」における、態度選択と、その責任をもつことが可能になる。

 

ここからは、既に提示した問題の言い換えをねちっこくやってるのだけど、ここら辺が読んでて、おもしろい。

こんにち世界に存在するさまざまの価値秩序は、互いに解きがたい争いのなかにあり、このゆえに個々の立場をそれぞれ学問上支持することはそれ自身無意味なことだからである」(P.53)


もし純粋な経験から出発するなら、人は多神論に到達するであろう(ジェイムズ・ミル)」(P.54)


あるものは美しくなくとも神聖でありえるだけでなく、むしろそれは美しくないがゆえに、また美しくないかぎりにおいて、神聖でありえるのである」

 

かつての多くの神々は、その魔力を失って非人格的な力となりながら、しかもその墓から立ちあらわれて、われわれの生活への支配をもとめてふたたびその永遠の争いをはじめている。現代の若い世代にとって、もっとも困難なのは、この日常茶飯事に堪えることである

 

かの「体験」をもとめる努力も、この意味の弱さからきている。というのは、弱さとは結局時代の宿命をまともにみることができないことだからである」(P.57)

 

「すなわち、われわれ(教師)は諸君に次のことを言明しうるし、またしなくてはならない。

これこれの実際上の立場は、これこれの究極の世界観上の根本態度——それは唯一のものでも、また様々の態度でもありうる——から内的整合性をもって、したがってまた自己欺瞞なしに、その本来の意味をたどって導き出されるのであって、決して他のこれこれの根本態度からは導き出されないということがそれである」(P.63)

 

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)