タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

蓮實重彦の三島賞会見と「心境」

YouTube蓮實重彦三島賞会見を見た。文学者業界の人は殊更に「わざわざ賞をもらっておいて、茶番だ」とコメントしてたりするようです。

 

でもそういう見識ある文学者の人たちは、この映像に映しだされたすさまじいまでの現実を見て、今誰かがみっともない茶番を演じないといけないのでは…と、一瞬たりとも思わなかっただろうか? ここでの蓮實重彦スノッブな三文役者呼ばわりするのも、それだって、知的エリートの方々の美意識の問題だとか業界内のご挨拶だとかに過ぎぬかもしれず… 

でもぶっちゃけ今私が関心があるのは、蓮實重彦でもなく見識ある評論家の方々でもなく、記者の方々の、質問。

 

すごく、ひどい。

これブンガクがどうこういうハイブロウな問題じゃなくて、総じて「ふつうに、質問ができない」というレベルの話(ちゃんと質問してる人もいたけど)。

 

しかし、この記者会見に集まったマスコミの人たちがことさらにアホで「質問」というものが分からない、ということなら別にいいけど、そういうことじゃない気がする。

まさか、日本の公的空間における言語が総体的に病んでるのでは…とか考えちゃう。

この映像を見てお気楽に「記者の方々が(あるいは『茶番を演じる蓮實重彦』が)アホですねぇ」とか笑うのも楽しい気晴らしなのでしょうが、私これ見てて、自分自身もこういう言語状況の一部だと、深刻に思っちゃうんですが…

単なる考えすぎですか? 病気ですか?

 

典型的なのは「三島賞受賞のご心境」についての質問。

相手についての何らかの理解に基づき、私はこう考えるがどうですか、という問いを投げかけるのが、インタビューの基本だと思います。たぶん。

それで初手から「今のご心境は」、これはインタビュアーの職務放棄にすぎないです。

今こういう質問、TVのインタビューなどで、よく見ますね。

「この作品に込めた思いは?」とか。

これは空虚なコトバだと思います。聴き手の態度も、相手に対する理解も、何もわからない、単なる投げっぱなし。

でもそれこそ、逆にその質問に「聴き手の思い」はこもっているのでしょうか?

「とりあえず、ビール」のような感じで、とりあえずお前何か言え、といわれて、気持ち良く何か答える気にはならないでしょう。

インタビュアーは、基本的にはインタビュイーに心良く答えさせるものだと思います。もしたとえ責めの姿勢のインタビューであっても。

 

「この作品にこれこれという思いを感じたが、どうですか?」ならまだわかる。

そんなに作品に「思い」を読み取りたいですか? ということは別として。

 

「ご心境」や「思い」についての質問に、別のもんだいもあって。

つまり「作品」ではなく「作品についての思い」を語るってのは、作品そのものをぐるっと迂回すること。

そこには、「そのもの」からの遠さ、ってのが、すなわち「奥の深さ」であり、ゲージュツ的で、ブンガク的で、文化的なことだという、ヘンテコな錯覚がある。

訳わからん付加価値を作品に無理矢理なすりつけて価値を底上げしようとしてるわけで、その果てのバブル崩壊のようなものが、佐村河内守さんと新垣隆さんの事件なんかだと思います。

講評の「退廃的な世界を描く」「言葉の世界を織り上げる」云々の「世界」というのも「思い」に似て… でも書くのがめんどくさいや。

 

蓮實重彦の記者会見では以降、決して作品そのものについてだけは誰も何も言わない文学賞受賞会見、という奇妙な光景が繰り広げられます。

 

「この作品には何が書かれているのか」「この作品を研究者としてどう評価するか」という質問もなかなかで、見た瞬間、コンビニのシャケのおにぎりが気管に入りました。絶息しかけた。終わりかけた。

 

それからなぜかYouTubeにあった1986年、ビートたけしフライデー事件の記者会見を見た。これまたバカらしい事件で、バカらしい質問だらけだけど、報道陣にもっと覇気がある。対するビートたけしも、それが正しいかはさておき、自分の言い分を冷静に堂々と語ってて、腹が据わった感じが、見てて気持ちいい。ちょうどバブル経済が表面化したころですね…

アホな結末に向けて突き進むアホな時代でしたが、なんか野蛮な勢いはあった気もする。まあリアルタイムで過ごしてたときは、最低の時代だと思ってましたが…・