ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事の中なるピアノ一臺
ほほえみに/にて はるかなれ/しもつきの/かじのなかなる/ピアノいちだい
塚本邦雄
しばらく短歌を読むことなど忘れさっていたのだが、仕事に追われる日々の鬱屈の中に、ふとこの歌が頭に浮かんだ。これが私の塚本の愛唱歌ということになるだろうか。
第六歌集『感幻樂』に、連作『羞明 レオナルド・ダ・ヴィンチに獻ずる58の射禱』の序歌として所収。ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』の謎めいた微笑へのオマージュだが、一首の解釈にモナ・リザを持ち込む必要はない。
二句切れ。
「遙かなれ」は「こそ+已然形」詠嘆の係り結びの、「こそ」省略形。
微笑みに似て遙かだ 十一月の火事の中のピアノ一台 は
微笑みに似て遙かだ 十一月の火事の中のピアノ一台 のように
形こそ命令形と同じなれ、命令形と読むのは、表現/解釈の経済性という点で、美しくない、と考える。さらに「霜月の火事の中のピアノ一台」が何の隠喩か、を考えねばならなくなるからである。
微笑みに似て遙かであれ 十一月の火事の中のピアノ一台 よ
そしてモナ・リザは、それほど火事の中のピアノには似ていない。
已然形と読めば、「遙かなもの = 霜月の火事の中のピアノ」ということで、解釈は尽きている。私にはただ下句のイメージの鮮烈さだけで充分に思える。
火事の中のピアノは白鍵盤の歯を剥き出して燃え尽きようとする微笑みだ。