波は神の手魚の流露いつの日も水晶の光濃き香の何か
なみはかみのて/さかなのりゅうろ/いつのひも/すいしょうのひかり/こきかのなにか
塚本邦雄の晩年、大手術の後遺症で清澄な意識を失いつつあった日々に作られた歌だという。
塚本の歌としては異色の不可解な文体。
塚本の歌は幻想的に見えて、同時代の葛原妙子や山中智恵子の幻視とも、浜田到の張り詰めた神経のふるえとも、岡井隆の実験性・ノンシャランな脱力とも違っていた。
常に論理的な解釈が可能だったが、これは極めて曖昧、解釈不可能だ。
自家薬籠中の初句七字、七七五七七体だが、この放心したかの措辞は異様だ。
「何か」とは何か。「いつの日も」とは、どの日のことか。
「光濃き香」も言いっ放し、危うい。
下句の不安定性、それ故かえって上句「波は神の手魚の流露」という呪文めいたフレーズに、語り手のなんらかの確信のようなものを感じてしまう。
塚本邦雄は本来、このような文体は嫌いだったろうと思う。
「幻を視ず」と語った塚本が、最後に幻視者たることを自らに許したのだろうか。
「流露」は「内にあるものが現れ出る」ことだが、それをアクロバティックに「流れる露」に転用している。
言語中枢から直接あふれ出たような文体には、初めて見たときから強烈に惹きつけられるものがある。