■パーリ語仏典は、すごくおもしろい。
日本で一般の人に親しまれているパーリ語のお経といえば、スッタニパータ(経集)、ダンマパダ(法句経)、マハー・パリニッバーナ(大般涅槃経)あたり。
なぜこの三つか。理由は大きく二つ。
パーリ三蔵は南伝大蔵、中村元、片山一良等の翻訳あり。
だが南伝大蔵は一般人にキツく、後者二つはエラく高い。パーリ三蔵の原文ならネットにある。パーリ語できればタダで読み放題、だが古代の口語を学ぶ苦労、たるや。
左インデックスScriptsのRoman(ローマ字表記)選ぶべし。法句経なら
Tipitaka(三蔵)→Muula→Suttapitaka(経蔵)→Khuddakanikaaya(小部)
→上から2つ目Dhammapadapaali! ちなみにゴエンカ氏の組織のサイト?
第二に、スッタニパータやダンマパダの詩偈の一部のみが、釈尊の本当の教えである、と思われている。
しかしこれ、語形の分析のみによって言われており、内容の分析に基づいていない。
最古層のテクストでないから内容が後世の捏造である、という論理は成り立たない。
文献学者のいう「最古の経典」と、それ以外の、たとえばアビダルマ的=理論的に整備されたお経が、致命的に矛盾していたら、大問題。
そういう事実がありますか? 実際に自分で読まなければわからない。
スッタニパータの『彼岸道品』や法句経は重要、だがこれだけ読んでも「じゃあ具体的に何をすればいいか?」はわからない。パーリ仏典が「物凄くおもしろい」ということがわからない。
「本来の仏説」にこだわらず、何よりパーリ仏典に一貫する「釈尊のstyle スタイル、文体」を味わってはどうでしょう。
それがあると、私は「これは、仏説」と思います。
それがないと、私は「これは、仏教のコスプレをした人」と思います。
具体的にそれが何なのか、今ここで説明することは、めんどくさいから、説明しない。パーリをいろいろ読めば、これか、と、わかるかも知れず。
あるいは、「これは私である/私のものである」というとらわれから離れたことばとは、どういうものか?
パーリ仏典に見られるある種の「語り方」は、達磨大師の「こころを、ここに出してみなさい」とか、中論、臨済録、正法眼蔵などの大乗のことばにも共通するものを見ることができる、かもしれず。あるいは「一転語」ということに、近いのかもしれず。
まあスッタニパータ以外もおすすめです、と、次回、梵網経のあらすじ。