タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

パーリ仏典『梵網経』:メタ宗教としての仏教(2)


■梵網経 Brahmajaala-sutta は、すごくおもしろい
パーリ仏典の例として、長部経典 Dhiiga-Nikaayaの最初の経である『梵網経 Brahma-jaala sutta』を取り上げたい。大乗の『梵網経』とは別もの。

梵網経 - Wikipediaでは、戒律と外道の教え、そして仏教の立場が説明された経典、と書かれてる。
これは「間違ってないけど、不正確」。英語Wikiの記述の方がより正確。
「人々の様々な<意見>の対立はどのように生じるか。対立する<意見>ではない<ありのままの智慧>はどのように生じるか」
というお経。

仏教はありのままに知ること。<見 ditthi>は、それと対立するもの。この経での<見>は、宗教・哲学的な意見のことだけど、もっと一般的な意味にとっていい。
 
■梵網経の構成
経典は、マガダ国のラージャガハとナーランダーの間の大街道からはじまる。
世尊と比丘たちがここを歩いていくと、後ろから遊行者スッピヤと、スッピヤの弟子ブラフマダッタが一緒に歩いていく。スッピヤは懐疑論者サンジャヤの弟子。
でスッピヤが世尊を批判するのに、ブラフマダッタは世尊を褒めたたえていた。その後宿泊したマンゴー園で、比丘たちがその話をしてるところに世尊が来て、説法が始まる。
1.(前フリ)人々が仏・法・僧をけなしても、怒ったり悩んだりしたらダメ
  人々が仏・法・僧をほめてても、喜んだらダメ
 怒り・悩み・喜びetc.の感情に心が支配されてたら、「彼らの意見は間違いである」
 とか、「正しい」とか、明らかな「事実」として知ることができない。
 
2.如来 tathaagataについて人々が語れるのは、外面的な相(特徴)だけ。
 如来の心は他人が知って語ることはできない
  tathaagataタターガタは「その如く行ずる者」などと語源解釈される。
 「修行を達成した人/人たち」の一般名詞である場合と、世尊ゴータマ・ブッダ
 過去仏たちなどの、固有名詞である場合がある。ちなみに梵網経中、一か所伝統的に「tathaagata=衆生=すべての生命」と注釈されてるところがあり。はて。
 
人々が世尊について言える事実は、これこれの戒律を守ってる人だ、だから聖者っぽい、とかいうことだけ。それについての感情に支配されたら、ダメ。
このパートから出家修行者の戒律が列挙される。中には古代インドの占い・儀式・遊びなどの風俗についての記述もあって、おもしろい。
 
別に如来じゃなくても、他人の自分に対する意見を聞いて、感情に支配されてないか、自分の他人への意見が、感情に支配されてないか、それが教えのポイント。
 
3.外面的なことより、如来「ありのままに見て、知る」智慧、それが重要
 様々な宗教・思想家の様々な意見は、「ありのまま」じゃないから対立する


自己や世界を「心によって観られた」ものと知るのが仏教のキホン。
自己や世界は心における現象であって、心における諸現象をありのままに観る、心をありのままに観る、それで心を育成すれば、問題解決。
ちなみに、仏教が苦行を否定したのは、苦行だって外面的な行為で、やっぱり心に生じた現象にすぎないから。水びたしの床をモップで拭き続けるより、「配管が漏水してます」と観る方がいい。蛇口を閉めれば水は止まる
 
では宗教・思想家たちは、どのような意見を語っているか。


ここからは、
4.ものすごくたくさんの「当時の宗教思想の列挙」
なおここで例示されてる、それら「外道」の宗教家は、みな瞑想の達人で、禁欲的な修行者の生活をしてる人、としてモデル化されてる。どっちも古代インド宗教家の必修科目。
それぞれ、本当に宗教的な境地に達してる立派な人たちなのだが、それでも「自分の意見」にとらわれると真実からズレちゃう、という意味。


4(1)永遠なる我/世界が存在する
 1-1 瞑想により何百・何千・何十万回の過去世を観て、そう主張
 1-2 瞑想により宇宙の破壊・創造のサイクル数回分の過去世を観て、そう主張
 1-3 瞑想により破壊・創造サイクル数十回分の過去世を観て、そう主張
 1-4 瞑想ではなく、自分で考えた理屈によって、そう主張
 
以下、このような「主張/その数種類の根拠」がズラ~っと並ぶのですが、これらの「様々な見解」は、まとめれば、以下のことを示してるだけです。アンチノミー


 <限られた経験にもとづいて、無限について語る → 思い込み

それに対して、釈尊は<ありのままに知ってる>ことを対置します。
「永遠論は以上のような根拠に基づくしかない。如来はこのような意見への囚われは、このような結果を導く、とありのままに知る。それを知り、より優れたことも知る。しかしその知にとらわれない。とらわれないから、ただ一人みずから、そこに離脱が観られる。比丘たちよ、如来はもろもろの感受の発生・消滅etc.をあるがままに知り、とらわれなく、解脱したのである」


4(2)一部永遠論 
このパートは神話的で面白い。
2-1 永遠なる創造神と非永遠なる被造物
 宇宙の破壊のサイクルのあと、全ての生命がアーバッサラ(光音天 Aabhassara)に
 再生する。この世界の生命は心のみで清らかに生きている。


 長い時を経てこの世界も破壊されると、「空のブラフマー神殿」という世界が生じ、
 ある非常に徳の高い生命が一人、この世界に梵天ブラフマー)として生まれる
 この生命も心のみで清らかに生きているが、孤独に悩み、「他の生命も現れてほし
 い」と願う。するとそこに、アーバッサラで死んだ生命が次々に再生する。
 最初の生命(ブラフマー)には、「私が願ったら、他の生命が現れ
 た。すなわち、我は生命の創造主で、最高神です!」という思いが生じる。
 あとから来た生命たちも、「あの神の願いによって、私たちは生まれました。
 あの方こそ創造主で、最高の存在です!」という思いが生じる。


 それで最初に転生したブラフマーは、徳が群を抜いて高く、善いカルマが尽きないか
 ら極めて長命だが、他の生命は先に寿命が来て、人間界にやってくる。
 場合によって宗教家になる。
 これらの宗教家が瞑想の達人になって過去世を思い出すと、「私は過去世で偉大なる
 神を観ました。彼は全ての生命に先だって存在し、全ての生命を創造し、たぶん、
 全ての生命よりも長く生き続ける。彼は永遠の最高神です!」という意見が生じる。

 

創造神話のパロディであり、ほのぼのグノーシス主義

この説話が何か瞑想の達人だけが思い出す真実とかなのか、単なる寓話なのかは知りませんが、話のポイントは、

 a. 「永遠の存在」とか「最高存在」とかいう主張は、実体験に基づいている

   まあ、この話では、神秘体験みたいなので、実際「そう見えた」わけです。

 b. しかしその体験がほんとうに、過去・未来にわたって永遠の事実なのかは、

   断言できない。<ありのままの事実>ではない、ということです。

これも4-1と同じことです。

壮大な宇宙論を頭でつくって、最高に偉大な神(梵天)を空想することは、できる。

仏教では心を持つもの=生命、ととらえるので、仮にいろんな宗教の神様が実在しようと、それは「OKそれはなんか物質性を離れた生き物の一種です」ということになります。仏教は本質的に、ぶっちゃけ、神様がいてもいなくても関係ないので、古代インドの一般的な信仰を、普通に認めてます。大樹に精霊が宿ったり、バラモンの庵を女神が守ったり、とか。

何かを拝むのがこの世で最高の境地です、とは言っていませんし、動物をイケニエに捧げたりするのは、良くない、と言ってますが。

そういう信仰は道徳的な教えとか、共同体の絆と結びついていたので、仏教的に、在家の人はそういう地域の伝統を守って仲良くしてください、などと言ってます。釈尊にはそういう神々・精霊をわざわざ否定する、という発想は見られません。

 

しかしその存在が「永遠の真理」を実際に見ることができければ、真実を知らず思い込みに陥る存在、有限な認識に囚われた存在、ということで、神様であっても、4-1の「立派に修行を積んだけど、思い込みに陥った宗教家」となんら違いがないことになります。

 

「永遠」や「無限」は実体験できない。神様のことを考えるより、いま「永遠」「無限」「最高神」といった神様の観念を造り出しているもの、「心」について解き明かした方が、地味に見えるかもしれませんが、現実的ではないでしょうか。

(1)

(2)いまここ

(3)

(4)

(5)