タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

パーリ仏典『梵網経』:メタ宗教としての仏教(3)

■梵網経の構成

4(2)一部永遠論(つづき)

2-2 キッダーパドーシカー(遊びで汚れるもの)の世界

快楽にふける神々(Khiddaapadosikaa)の世界から人間世界に転生してきた修行者が、瞑想の中で、「自分たちは、快楽により心が汚れた神々の一員であり、煩悩のせいで死と再生があった。他の神々は快楽を離れているから永遠に生きるはずだ」と考える。

 

2-3 マノーパドーシカー(心で汚れるもの)の世界

これも同じような説話。嫉妬に囚われ戦う神(Manopadosikaa)の世界から転生した宗教家が、瞑想の中で、自分の過去生は神だったが、心が汚れていたから死と再生があった。他の神々は永遠に生きるはずだ、と考える。

2-1では、徳の高い梵天とその周りの生命が互いを見て、永遠の存在と死すべき存在、という意見をもつ話だった。それに対して2-2、2-3は、本来、神の生命は永遠だが、堕落によって、死すべき存在となったのだ、と思う話。

 

ブッダは輪廻転生を説かなかった、と主張する人がいますが、実際経典には輪廻が説かれているけども、輪廻の否定は説かれていないので、それはムリ目ですね。

「無我」だから輪廻があるはずがない、と考えたことに、問題があったのかも。

 

輪廻説は、善悪の行為には結果がある。生きることは無価値ではない、ということと結びついてる。仏教は、とらわれないことを教えてるけど、それは、ただ現実に対して無感動になることではない。生命の否定でもない。他の生命との共存、慈悲、というのは重要視されてる。輪廻説を捨てると、なにか近代科学的になったという自己満足はあるかもしれないけど、だから? ということになる。理論的に穴が開く。

 

六師が、たとえば原子論によって、生命を殺しても原子に分解されるだけ、善悪はない、とか、あるいは詭弁論で、善も悪も判断しない、判断にとらわれない、という。

とらわれない心の境地だと。本人は修行を積んで梵行を守って、それで心の平安を得てるかもしれませんが、本人以外の人の生きて死ぬことについて、リクツとして、何の答えにもなってないでしょう。全然ダメ。

ジャイナ教は、他の生命のことを考えてモラルを追求したから、現代まで生き残った。仏教と違うのは、心ではなく、行為において完全な善を達成しようとするところ。

 

2-4 推論家

ある種の宗教思想家は、瞑想ではなく、理論によって「身体は不滅ではない、だが魂は不滅のはずだ」という意見をもつ。

 

4(3)世界の有限/無限論

3-1 瞑想により、世界は有限であるという意見を持つ

3-2 瞑想により、世界は無限であるという意見を持つ

3-3 瞑想により、世界は上下に有限であり、横に無限であるという意見をもつ

3-4 理論により、世界は有限でも無限でもない、という意見をもつ

 

4(4)詭弁論(相対主義

4-1 善も不善も知らず、嘘をいうことを嫌うため、善・不善を断言しない

4-2 善も不善も知らず、断言によって起こる煩悩を嫌うため、善・不善を断言しない

4-3 善も不善も知らず、無知を指摘されることを嫌うため、善・不善を断言しない

4-4 愚かさと無知により、何も断言しない

 他の項目では理想的な宗教家が例になってましたが、この項目だけは、ダメな人が

 例になってます。また、「相対主義」の例が詳述されてます。

 4-4-1 他の世界は存在するとも、しないとも、それ以外だとも、それ以外でないとも、

   それ以外ではないとも思わない etc. あらゆる思いがない

 4-4-2 化生(この世以外の生命)は存在するとも、しない、とも...(略)

 4-4-3 善・悪行為は結果(カルマ)を生むとも、そうでない、とも...(略)

 4-4-4 tathaagataは死後存在するとも、しない、とも...

 ※このtathaagataは注釈では「衆生」とされている。これは外道の説の引用であり、

  「如来」の意味であるはずがない、と考えたのだろう。

 

このパートだけ他のパートとちがうのは、やはり世尊は、宗教・思想家を名乗るなら、人々に、生きる上での価値感を提示するものだ、と考えていたのでは…と思います。

「何も思わず、何も主張しない」宗教家に対しては、どことなく、他のパートより厳しい気がする。

 

4(5)無因生起論 世界/我は原因なく生まれる

5-1 アサンニャッター assannyattaa(一切の想念をもたない神)が人間界に転生し、

 修行者として、瞑想の中で、思い出すべき前世はない、つまり世界と我は原因なく

 生じた、と思う。

5-2 理論によって、世界と我は原因なく生じる、という意見をもつ。

5-1の記述はあっさり味ですが、なかなかすごい発想です。

 

(1)

(2)

(3)いまここ

(4)

(5)