■梵網経の構成 つづき
5(1)経典のまとめ
1-1 これらの宗教思想家は、合計62の過去・未来についての見解をもっている。
過去・未来についての宗教的・形而上学的見解は、これら62の根拠による他ない。
如来は「これらの見解は、このように囚われていて、これこれの結果をもたらすと知
る。またそれより優れたことをも知る。しかしその知に執着しない。執着しないか
ら、ただ一人自ら、そこに解脱が見られる」
1-2これらの(1)永遠論(2)一部永遠論(3)有限無限論(4)詭弁論
(5)無因生起論(6)過去世の論(7)死後有想論(8)死後無想論
(9)死後非想非非想論(10)死後断滅論(11)現世涅槃論は、
彼らが知らないまま、ありのままに見ないままに、感じとったことであり、
渇愛(執着)に囚われたものが、悩み、動揺したことにすぎない。
繰り返しになりますが、今まで列挙された意見を持つ宗教家たちは、マジメに戒律を守り、瞑想に習熟した、古代インドでは聖者とされる人たち/あるいは頭が良い理論家、として仮定されてました。(懐疑論者の項目だけ、「何も考えておらず、無知な」宗教家がでてきましたが)
その彼らが、それぞれ、それなりにスゴイ宗教体験をしてるんだけど、
<自分の有限な体験に固執し、無限を語る><その見解に執着する>
<ありのままに知らない>ということにより、様々な意見を語っている、ということです。それだけ。いちいち全部列挙するのは、はっきりいって、無駄な努力でした…
で、問題は、渇愛、執着してること、にあるということです。
1-3 接触 phassa ということ
これらの様々な主張は、眼耳鼻舌身意の6種の場所における接触を縁として
phassa-paccayaa 生まれる。
彼らが接触なく感知できるという理は存在しない。
触(phassa)とは、感覚の対象と感覚器官が触れること。
ここまで述べられた「体験」が、その根源としての「感覚器官との接触」として見ら
れているわけです。問題の「体験」は、古代インドの話だから、宗教家の神秘体験で
した。神秘体験だって、「感覚」が存在しなかったら、存在しない。日常的な体験と
同じです。
1-4 接触と縁起
すべてのものは、6種の接触する処において、対象に触れ、感知する。
触により生じる受(好き・嫌い)を縁として渇愛(対象への愛着)があり、
渇愛を縁として取(執着)がある。取を縁として存在があり、
存在を縁として生があり、生を縁として老・病・死・苦・悩み・煩悶がある。
心に生じた感覚をありのままに、こういう感覚、として見ているならば問題はないのですが、「接触」にありのままに気付かないと、そこから様々な現象が連鎖していく。
ここでは有名な12縁起の別バージョンが述べられています。
1-5 宗教・形而上学に対して修行者がすべきこと
比丘たちよ、6種の接触場所の生起・消滅・楽・障害・解脱をあるがままに知るなら
ば、かれは今まで紹介した見解より、すぐれたことを知る。
どんな宗教家も、過去・未来について考え、見解をもち、自説を述べる以上、
これまでの62種の根拠により、網にかかり、浮かび、捕らえられる。
腕のいい漁師が池の魚を一網打尽にするように。
どんな宗教・形而上学もこのお経で一網打尽になる、と言われています。
1-6 まとめ
比丘たちよ、一束のマンゴーの茎が切られると、茎にぶらさがっているマンゴーも全てそれに従うように、如来のからだは、生存につながるものが断ち切られて、とどまっている。そのからだがとどまっている限り、神々も人々もそれを見る。しかし生命が尽きた後は、神々も人々もそれを見ることがない。
尊者アーナンダは世尊に「この教えは何と呼びましょう」と聞く。
「この法を意義の法Attha-jaala、または法の網Dhamma-jaala、あるいは梵天の網 Brahma-jaalaとして、あるいは見解の網 Ditthi-jaala、または最上の戦勝anuttara-sangama-vijayaとしてもよい。」
比丘たちは歓喜し、一万の世界が震動した。
経典は、冒頭の「人々は如来について何を語ることができるのか」というトピックに戻っておわります。それは語ることはできない。そこには語ったり知ったりする対象が滅しているから。自分自身でありのままに見て、証明するしかない、ということです。
パーリ仏典は「信仰とか信念、見解というのはどのように生成されるか」という視点を内部にもってるわけです。だから、いわゆる宗教とは異質、ということですね。
以上、『原始仏教 1号』(1991年,中山書房仏書林)片山一良訳を参考にしました。