タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

パーリ仏典『梵網経』:メタ宗教としての仏教(5)

■梵網経の構成 つづき

5(1)経典のまとめ

1-1 これらの宗教思想家は、合計62の過去・未来についての見解をもっている。

 過去・未来についての宗教的・形而上学的見解は、これら62の根拠による他ない。

 如来は「これらの見解は、このように囚われていて、これこれの結果をもたらすと知

 る。またそれより優れたことをも知る。しかしその知に執着しない。執着しないか

 ら、ただ一人自ら、そこに解脱が見られる」

1-2これらの(1)永遠論(2)一部永遠論(3)有限無限論(4)詭弁論

 (5)無因生起論(6)過去世の論(7)死後有想論(8)死後無想論

 (9)死後非想非非想論(10)死後断滅論(11)現世涅槃論は、

  彼らが知らないまま、ありのままに見ないままに、感じとったことであり、

  渇愛(執着)に囚われたものが、悩み、動揺したことにすぎない。

 

繰り返しになりますが、今まで列挙された意見を持つ宗教家たちは、マジメに戒律を守り、瞑想に習熟した、古代インドでは聖者とされる人たち/あるいは頭が良い理論家、として仮定されてました。(懐疑論者の項目だけ、「何も考えておらず、無知な」宗教家がでてきましたが)

その彼らが、それぞれ、それなりにスゴイ宗教体験をしてるんだけど、

<自分の有限な体験に固執し、無限を語る><その見解に執着する>

<ありのままに知らない>ということにより、様々な意見を語っている、ということです。それだけ。いちいち全部列挙するのは、はっきりいって、無駄な努力でした…

で、問題は、渇愛、執着してること、にあるということです。

 

1-3 接触 phassa ということ

 これらの様々な主張は、眼耳鼻舌身意の6種の場所における接触を縁として

 phassa-paccayaa 生まれる。

 彼らが接触なく感知できるという理は存在しない。

 

 触(phassa)とは、感覚の対象と感覚器官が触れること。

 ここまで述べられた「体験」が、その根源としての「感覚器官との接触」として見ら

 れているわけです。問題の「体験」は、古代インドの話だから、宗教家の神秘体験で

 した。神秘体験だって、「感覚」が存在しなかったら、存在しない。日常的な体験と

 同じです。

 

 1-4 接触と縁起

 すべてのものは、6種の接触する処において、対象に触れ、感知する。

 触により生じる受(好き・嫌い)を縁として渇愛(対象への愛着)があり、

 渇愛を縁として取(執着)がある。取を縁として存在があり、

 存在を縁として生があり、生を縁として老・病・死・苦・悩み・煩悶がある。

 

心に生じた感覚をありのままに、こういう感覚、として見ているならば問題はないのですが、「接触」にありのままに気付かないと、そこから様々な現象が連鎖していく。

ここでは有名な12縁起の別バージョンが述べられています。

 

1-5 宗教・形而上学に対して修行者がすべきこと

 比丘たちよ、6種の接触場所の生起・消滅・楽・障害・解脱をあるがままに知るなら

 ば、かれは今まで紹介した見解より、すぐれたことを知る。

 どんな宗教家も、過去・未来について考え、見解をもち、自説を述べる以上、

 これまでの62種の根拠により、網にかかり、浮かび、捕らえられる。

 腕のいい漁師が池の魚を一網打尽にするように。

 

どんな宗教・形而上学もこのお経で一網打尽になる、と言われています。

 

1-6 まとめ

比丘たちよ、一束のマンゴーの茎が切られると、茎にぶらさがっているマンゴーも全てそれに従うように、如来のからだは、生存につながるものが断ち切られて、とどまっている。そのからだがとどまっている限り、神々も人々もそれを見る。しかし生命が尽きた後は、神々も人々もそれを見ることがない。

尊者アーナンダは世尊に「この教えは何と呼びましょう」と聞く。

「この法を意義の法Attha-jaala、または法の網Dhamma-jaala、あるいは梵天の網 Brahma-jaalaとして、あるいは見解の網 Ditthi-jaala、または最上の戦勝anuttara-sangama-vijayaとしてもよい。」

比丘たちは歓喜し、一万の世界が震動した。

 

経典は、冒頭の「人々は如来について何を語ることができるのか」というトピックに戻っておわります。それは語ることはできない。そこには語ったり知ったりする対象が滅しているから。自分自身でありのままに見て、証明するしかない、ということです。

 

パーリ仏典は「信仰とか信念、見解というのはどのように生成されるか」という視点を内部にもってるわけです。だから、いわゆる宗教とは異質、ということですね。

 

以上、『原始仏教 1号』(1991年,中山書房仏書林)片山一良訳を参考にしました。

 

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