わが目より涙流れて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを
わがめより/なみだながれて/いたりけり/つるのあたまは/かなしきものを
『赤光』所収歌。三句切。
歌意はそのまんま
「私の目から涙が流れてた。鶴の頭は悲しいものです」。
文意に分からないところは一つもないが、だが全く訳がわからない。
すごく、茂吉っぽい。
茂吉に歌の意味を聞けば、茂吉っぽく、こう答えるかもしれない。
ともかくある日、茂吉は動物園かどっかで鶴の頭を眺め、
「鶴のあたまは! なあんて悲しいんだっ!!」と思って号泣してたのである、
そういう事実を、そのまま書いたまでである。
動物園でツルの頭を凝視しながら、滂沱の涙を流し続ける、歌人/精神科医。
たとえ「事実そのままなのである」、と日常茶飯事のようにいわれたとしても、
読者からのそれぜんぜん当たり前の光景じゃねえから、
というツッコミも、避け難きことと思う。
「あたまの悲しみ」は、斎藤茂吉が精神科医として患者さんの苦しみを間近に見ていた感情と無縁とは思えないが、そういう「情」ではなく、あくまで実際に見えた「景」を描く。
むしろ、情や観念や文学的意匠を捨てた、事実としての「観られた景」には、
「そのように観た」という事実において、
事実としての情念が、純粋に刻印されているのである、
てな感じのが、茂吉の歌学だが、
それにしても、なぜツルの頭が悲しみとして現れねばならないか。
たぶん事実を事実として歌っただけなのであるから、
悲しみでも号泣でも、なんでも茂吉の好きにすれば良いのであるが、
これは文学なんだから、そこらへんの言葉では表しようのない事情を、言葉で言ってもらわねば、収まらないのである。
ツルの種類は歌の中で特定されていない。
一般的な事実として、ツルといえば首がひょろ長く、頭は小さい。
私は、あの頭の「小ささ」が悲しさなのか、と思ってた。
尖ったあたまの中に保護され、形態のなかに限定付けられた精神。
一種の、宿命のかたちとしての頭蓋骨。もっと言やあ、メメント・モリな感じ。
だがそれだけだと、あたま=悲しみというには弱いようにも思う。
歌それ自体から特定できない訳だが、やはりこのツルはタンチョウではないだろうか。
その小さな頭の頂きにあかあかと灯った、小さな赤い灯。
これは悲しそうな気がする。でもイマイチ、「決まった」感じが来ない。うーむ。
胡桃ほどの脳髄をともし まひるまわが白猫に瞑想ありき
葛原妙子『原牛』
などと思ってたら、2016年くらいにネットで鶴の頭が怖い、というネタが流行ってたのを、今更知った。画像もあった。
私はタンチョウのあたまの赤いところは羽毛だと思い込んでたのだが、
あれは実はトサカみたいな肉瘤で、ブツブツだと。
鮮明に見ると、はっきりいって、タンチョウの頭の赤いところは、脳に見える。
それで茂吉の歌ってることも、わかった気がしたさ。
そして、私は「タンチョウの頭は赤い」と知ってると思ってたが、実はタンチョウの頭を知っておらず、「タンチョウの頭は赤い」という観念とかイメージを持ってただけだった、ということも、わかったさ。
鶴の頭を茂吉は、ごく近くから克明に観ていたのだと思う。
絵に描かれた観念としてのツルではなく、実際に茂吉が目で観たツルのあたまが
まさに悲しかった、ということなのだろう。