白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
しらとりは/かなしからずや/そらのあお/うみのあおにも/そまずただよう
たぶん一番有名な短歌の一つを、勉強をかねて読んでみるなり。
●歌意
この歌はほとんど現代語なので、訳す必要がないのだった。
百人一首の実朝「綱手愛しも」のように、古語「かなし」には「哀しい」に加えて「いとおしい」ニュアンスもある。
だから「あの白い鳥は哀しくないのかなあ」の他に、「あの白い鳥の愛おしいことよ」とも読める。「白鳥よ、哀しくはないか」のニュアンスでも読める。
こうやっていろいろ「訳す」と、すでに元の歌とは違ったものになってしまっており、
つまるところ「かなしからずや」は訳しようなく「かなしからずや」でしかない。
「かなし」が具体的にどのような「かなしさ」なのかは、それこそ読み手の生き方しだい、自由に読むべきものであって、それは読解の対象ではないだろう。
●歌体
二句切れで三句の体言止めを下句とのピボットにする歌体は、古今集っぽい。
しかし三句「空の青」が四句「海のあを」をリフレインにして、意味、韻律双方における、上下句の繊細な統一がなされてる。
染まず、は「しまず」とも読めるけれど、作者は「そまず」と読ませていた。
海空の青の広がりに「染まず漂う」という表現だから、
遠景であり、鳥は小さくイメージされる。
すぐ眼の前にいる鳥は、海空の青に漂わないからである。
また、この鳥はハクチョウなどではなくて、小さな海鳥の類がふさわしい。
青と「あを」、同じ字の繰り返しを避けて表記を変えるのは当たり前のことだが、
なおかつ、空と海の異なる「あお」色を、暗示する効果もある。
やまとうたの読解では伝統的に、季節や場所、歌の由来も重要なファクター。
歳時記や鳥類図鑑、牧水の伝記的な事実を辿れば、さらに詳細な読みができるのだろうけれど、今はおいて、三十一文字の中だけで読めることだけに絞る。
作品を作者に引き寄せすぎると、最終的に作品は伝記や文学趣味の中に消失してしまう。もちろん牧水は興味深い人物なのだけれど。
●修辞技法
切れの前は「かなしからずや」と疑問/詠嘆の形になっている。
「鳥が愛(かな)しい」じゃなくて「鳥が哀しい」ととる場合、
鳥類はたぶん、かなしくないし、よしんばかなしかったとしても、それを語る言語をもたない。「擬人法」である。
この歌の話者の疑問は、自問であって、また自ら答えるしかないものである。
だからこの疑問形は詠嘆に等しい。
語り手が「哀しい」のであって、白鳥に自分の姿を重ねているにすぎない。
語り手にとって「鳥が愛しい」と結局は同じ意味になる。
詩にとって、このような擬人法や修辞的な疑問・詠嘆は、読者にわかりきったことを遠回しにいう臭みをもちこむ危険がある。この歌では擬人法も修辞疑問も上句に圧縮されれて、下句の方に重心があるから、瑕にならない。
この歌の詩的な重心は白と青が「染まず」というところにある。
「海・空を漂う鳥」という景は、一種の隠喩(メタファー)として読めるけど、
意味することは歌の語り手の人生だとか、世界内の生命だとか、隠喩というにはやや多義的、いろいろな読み方ができる。すなわち「象徴表現」といえる。
この歌では鳥・空・海という具体物よりも、その色彩にフォーカスがあり、
「鳥が空・海の真ん中に、際だってぽつんと漂っている」象徴的な景を、
「青に染まらない白」と表現している。
これは、鳥、空、海の「属性」である色彩にフォーカスした「換喩(メトノミー)」で、事実を絵画的に変換するとともに、さらに抽象の純度を上げているわけだ。
表現の中心は抽象化された景「青の中の白」であって、鳥が一羽でも数羽でも、最終的には関係ないことになる。
「青に染まずただよう白」は「哀しからずや」である、
という非常に強力な発見・表現、それが愛唱性の高い、素直な音調に表現されているところにこの歌の美しさがある。