タパヌリ熱

"What do you know, pray, of Tapanuli fever?" said Sherlock Holmes. 音楽や本など、嘘や発見を書くブログ。旧ブログ http://ameblo.jp/baritsu/

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ/塚本邦雄

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ

かくめいか/さくしかに より/かかられて/すこしずつ えきか/してゆくぴあの

塚本邦雄

 

革命歌の作詞家がよりかかって、液状になるピアノ。

第一歌集『水葬物語』所収歌。

 

●韻律

字数は四句8音、定型を守ってますが、塚本の韻律手法として名高い「句跨がり」が用いられています。

句跨がりは、「50年代前衛短歌」の重要な技法の一つ…とされ、また、句跨がりを使ってさえいれば、「50年代前衛短歌の技法を消化している」と評されたりするようですが、でも単に句をまたいだだけの歌体は、なんだかだらしない感じがする。

現在ではもう常識的な技法ですが、不用意に濫用すると、定型感覚に悪影響が出るんじゃないか、と思ったり。「いい句跨がり」と「あんまし、良くない句跨がり」があるんじゃないかと、思ったりします。

 

この歌の句跨がりは、単にズラしておわり、というレベルのものではなくて、ちょっとした超絶技巧になってるです。どこがか。箇条書きで示す。

 

くめいくしに より/かかれて/すこしずつ えき/してゆく ぴ

 

(1)句跨がりと意味の連動

「より/かかられて」「えきか/していく」が句跨がりですね。

五句構成57577の切れ目と、語句の切れ目、意味上の切れ目が、ズレてる。

この歌では、その後方へのズレが、「寄りかかる」「液化する」イメージと連動していて、意味の上でも効果をもってるわけです。

 

(2)母音律

上の音の表記では、「カ」音を赤字、それ以外の「ア段」音を青字にしてみました。

たんにギクシャクしたリズムにならないよう、ア段音、特にカ音がアクセントとして、リズムを統一していることがわかります。(他に「ク」の配置、などにも配慮が見えますが、ここでは「ア」音に絞ります)

 

初句二句に集中してあらわれるア段頭韻 alliterationの効果、

句跨がり前後にトメとして打たれるア段音の効果、

それから結句「ピアノ」のやわらかい「ア」の効果に注目。

 

塚本の盟友だった、岡井隆が『短詩形文学論』(1963年、金子兜太との共著)で論じたように、日本語には基本的に開音節しかない(「ん」「っ」以外、どの音節も母音で終わる、英語のbookのようなのがない)ため、単純に「韻」を踏むことはあまり効果的ではない

むしろ、母音の濃度勾配みたいなものが重要になるようです。

 

「母音律」を論じた岡井隆の名歌を見てみましょう。

 飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆくいま紛れなき男のこころ

 とぶゆきの/うすいをすぎて/くみゆく/いままぎれき/おとこのこころ

 

ア段音が「いま紛れなき」をピークとして三句以降に配され、

続く結句、オ段乱れ打ちが、すごい。シブい。

岡井隆こそ「実験的」と呼ぶにふさわしい歌人、じゃないかと思います。

 

おまけに、俵万智「サラダ記念日」所収歌

 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

四五句に句跨がりがありますが、むしろそれが目立たないように作られている。

母音配置を見てみます。

 ういえお/ああええういえお/えういおお/いうあああああ

初句、二句、三句アタマ、結句最後の五音に「ア」段音を配置してます。

そのうち初句アタマ、三句アタマ、結句末尾が「サ」音。

四句アタマから「オ」に変えてて、その「答える人の」が、一首の意味上の中心。

それで結句「いる」「あたたかさ」。ア段音でまとめていて、何気ない歌に見えるけれど、はっきりした構成がかくれてる。

 

(3)音数律の異分析

和歌の「リズム」は、単に約31文字を並べさえすれば生まれるものではありません。

 

こどものころワタクシが百人一首ですり込まれた感覚では、

たとえば7音句は、3音ユニットとn2音ユニットに分割され、3+4、4+3だとか、3+4、3+4、といった音数配置によってリズムが発生する、と感じる。

( 各ユニットは「文節」だから、当然リズムとことばの意味は連動する)

すなわち、和歌的なリズムというのは、3音、n2(2あるいは4)音、5音五句構成への配置だと思ってます。

 

和歌のリズムは基本的に二拍子的、八拍に近い(しかし等時的ではなく、伸縮する)ものですが、ここに奇数音ユニットが置かれると、シンコペーション的な効果を生む。

 

この歌の3、n2、5ユニットの区切りを色わけで示します。下線は句跨がり。

かくめいかさくしかによりかかられてすこしずつえきかしていくぴあの

 

57577定型のリズムで読んでも、意味どおり句跨がりのリズムで読んでも、「さくしかに+より」「より+かかられて」あるいは「すこしずつ+えきか」「えきか+していく」と、和歌的な音数律の基本構成が、異分析的に、あらわれます。

すなわち、この歌の「句跨がり」は3、n2、5の音数構成をズラしているけど、壊してはいない。

ときどき誤解されてますが、塚本邦雄は基本的に「破調」の短歌は作っていない。

 

●歌の意味

この歌は、ひとつの「短歌論」「定型詩論」だと思います。

 

短歌は、定型のうた音楽としての本質をもってる。

さて、「革命歌」、「革命の」という限定のついたうたは、音楽の上に、政治的な意味がのしかかってるわけです。

 

意味であることと、音楽であることの間には、緊張関係があります。

社会主義リアリズムとか、20世紀前半のモダニズムの実験などを思えばわかりやすい。あるいは今日の口語短歌とか。

 

今日、古今和歌集の文体で歌うことはむずかしい。自分が生きている現在を歌おうとすれば、漢語や外来語、口語とか、俗なものも導入せざるをえなくなる。

定型があれば、必然的に、破調もあるものです。定家も芭蕉もそんなことを示唆してます。

すると、リズムは乱れようとする。

 

では、しかも定型詩であるためにどうするのか

単に音楽を破壊するのでもなく、古典世界のリズムに閉じこもるのでもない、方法があるか。

というようなことについての、マニフェストであり、一つの実践というのが、この歌だと思います。

 

意味が音楽を圧していくと、しまいに、音楽はぶよぶよの、異形のものに変容していく。それをなお、音楽として奏でてみる、というような。その音楽が、最初に論じた精緻な韻律構造、なんじゃないでしょうか。

 

そのむかし、はじめて解釈に挑戦してみた歌ですが、シンプルに見えて、読めば読むほどおもしろい。

(旧ブログ2011/12/20より転載、訂正、追記あり)

塚本邦雄全集 (第1巻)

塚本邦雄全集 (第1巻)

 

 

 

短詩型文学論

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