しんぴんの/めざめ ふたりで/てにいれる/みー たーざん/ゆー じぇーん
口語短歌はあまり好きじゃないけれど、穂村弘はけっこう自然に読めた。
なぜかと思うに、一つには、詩としても「読める」こと。この歌は読解する必要ないけど。
それから、穂村弘の歌は韻律の面では基本的に保守的だからだと思う。保守的なリズムを活かして自由なことをやる。
このターザンの歌の上句、5プラス3プラス4プラス5に文節された明快なリズムは、子供のころ百人一首に親しんだ人間にとっては、自然に響く。
下句は極端な字足らずなのだが、上句で定型リズムが明確に設定されていること、定型的な引用句であることと、リフレインになっていることから、別に破調の感じは受けない。オートマティックに、「みー」「ゆー」の後にやや長めの休符が入る。
ここで書きたいのは短歌定型というのは「57577=31文字」ではない、ということで。
ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり
1はーぶてぃーに/はーぶにえつつ/はるのよの/うそつきはどらえ/もんのはじまり
2はーぶてぃーに/はーぶにえつつ/はるのよの/うそつきは/どらえもんのはじまり
3はーぶてぃーに/はーぶにえつつ/はるのよの//うそつきはどらえもんのはじまり
この歌も上句は初句六音、二句「つつ」三句「春の夜の」と、和歌のパロディ風になっている。
下句は上記(1)のように、四句1字余り句跨がり、と解釈すれば定型そのものだが、文字数は巧妙なアリバイにすぎないのではないか。
私にはむしろ、(2)や(3)のような、二句が融合し未分節な歌体に感じられる。
「〜どらえ」「もんの〜」という「短歌定型」の圧力より、「どらえもんのはじまり」「うそつきはどらえもんのはじまり」という一まとまりのフレーズの圧力の方が高い、と感じるから。
大山のぶ代(の頃しか知らないが他の声優でも誰でもいい)の声で読んでみてほしい。「どらえもんのはじまり」は区切りをもたない一息のフレーズであろう。
また「どらえ」「もんの」という「定型に準じた」切り方は、単に「文字」を機械的に五句に割り当てただけで、日本語のリズムとの関連をもたず、「句跨がり」のリズム上の効果を持たない。
すると下句では短歌定型のリズムが、日常言語の異質なリズムに変調していることになるが、上句の取り澄ました、というかあえていえばカマトトぶった定型が、それを短歌として読ませてしまうわけだ。
この歌の下句だけ取ったような、「文字を数えると三十一文字だから、短歌」というような歌がさいきん多いんじゃないか、と思ったりして。現代の口語短歌に限ったことじゃなくて、明治以降のことかもしれないが。それで短歌からリズムをとったら、俳句に長すぎ現代詩に短すぎる何か、になるような気がする。
文字数じゃなくて「定型感」というような感覚がある。それがどんな感覚かは人それぞれかもしれないが。でもそれが意識にあるかないか、ということはあると思う。