子供時分を思い出してみると、
自分が空虚というか、頭の中、心の中がずっとカラッポに感じていた。
意思がない。何もない。
周りの人間の話してることの意味が、わからなかったですね。
でも活字だけは何の苦労もなく読めたんで、大人向けの本ばっか読んでた。小学生のときに岩波の漱石全集とか。ずっと部屋で本を読んでいたかったですね。
理性的なものに留まってれば、空虚でもたぶんOK、と思ってたんで、何とか生きてました。社会から乖離しない方がいい、と思ってたので、普通に社会生活しながら、頭の中の世界に引きこもってたんですね。ぶっちゃけ精神的には割と無理があったので、高校受験の後から、30、40代まで結構危機だった。
高校くらいのときは、哲学とか宗教に救いがあんのか? と思ったこともありますが、
哲学も宗教も読んでみると全部「…少なくとも、俺はそう思ってる」「根拠はないが、信じろ」という話で終わるので、私には、役に立たなかった。
信じてもしょうがないんですね。信じてるということは知らないということですから。
小学生のころ読んだ般若心経とか、高校時代に読んだ『臨在録』とか、社会人になって学んだ座禅(アーナパーナ・サティ)とかが、危機から脱するきっかけになった。
「頭で考えた」は「そう生きてる」じゃない、というようなこと。
振り返ってみると、登山というものから得たものも大きい。
で、そういう虚無の人間が、なぜか何度か体育会系の部活とかやってたんですね。
空手とか。
学校を歩いてると、なぜか体育会系の部室に拉致され、気が付くと入部させられてる。
一様に、「なんか動きが変な奴だったから」という理由で。
めちゃくちゃ失礼ともいえますが、また世の中には、変な奴を気にしてくれる人もいる、ということでもある。
それで自分の意思がない空虚な人間だったので、特に何の思いもなく、
自分から退部する発想もなく、
何も考えず、そのまま正拳突きにいそしんだりしてた訳です。
それで高校時代、気づいたら山岳部に入ってたんですが、
なんか有名な山は結構登ってたみたいなんですね。人ごとのようですが。
登ったというか、気がついたら登ってたんですが。
最初の山が涸沢から槍。(その前に丹沢あたりで訓練したか?)
穂高、劔岳、甲斐駒、木曽駒とか。南アを一週間縦走したりとか。
なんか気づいたら大キレットに取り付いてる自分を発見しましたよね。
あれはヤバかった。
冬山も春山も登ってますね。自分のこととは思えない訳ですが。
そういう虚無の山屋だったわけですが、
「山とか登山は、こういうもの」という意識はありました…
知識や体力、技術、適切な装備がないものは足を踏み入れちゃいけない世界だと。
自己責任の世界。
自分のものではない、人間のものではない場所に侵入するわけですから。
たとえば、環境をなるべく変化させない、とか。自然石は動かさない、落とさないとか。
うっかり石を落とすことは恥なんですね。
今では、山で焚火する登山者がいるそうですが、 麓のキャンプと登山の区別が分からないんですね。
「どっちも、アウトドアだろ?」みたいな…
別にそういうレクチャーがあった訳じゃないですが、山に入る人が暗黙の裡に共有してるものがあった。
自然は、人間の世界ではない。漱石のいう非人情の世界。それは人間にやさしくない。
人間は裸でそうした世界には生きられない。
人間が人間の世界の外に入れば、結局そこはやっぱり人間の世界を作らざるをえない。
そこで先人たちの集合知から生まれたもの、文化が必要になる。
他者の声というものが助けになる。
目の前の先輩たち、あるいはすでに死者である先輩たちから、自然に文化を受け継いでた、と思う。
google検索やAIの回答文だけで学べるものはこの世界にはない。
(それは山や海に限ったはなしではなく、「人間の世界」というのもホントは「人間の世界」ではないのだが…)
そんで訓練ではなぜかキスリングという化石のようなザックを使ってた。
で石とか水とか詰めて登る。歩荷ですね。
丈夫なだけが取り柄の単なる袋。
パッキング技術がないと、荷の重心が滅茶苦茶になり、
背中やら腰やらが激しく痛み、バランスの悪さから足にダメージが来たりする。
この横長の重りを背負って登るには、どうしたらキツくないのか、
体の使い方を暴力的に考えさせてくれる。
自己責任ということを体に教えてくれる魔法の装備。
撥水スプレーを噴射しまくらないと、防水性が全然なかったです(たぶん老朽化のせい)。
そうそうどの装備をいつ使うか考えてパッキングしないと(すぐ使うものは取り出しやすい場所に)、休憩のたびにパッキングやり直し大会になる、ってのもあった気がする。
そしてまた重心が悪くなる。
さらに、年期が入ってて、くさくて、ベトベトしてた。
右足を前に出したら左足を出す。やるべきことをやるだけ。
あの変なニオイのするキスリングは、そういうことを教えてくれた…
で2,000m級以上の樹林帯の上、稜線や山頂から見る世界は、
何を小さなことに囚われてるんだ、と教えてくれた。
人間の世界の外部をちら見したわけです。
そんでまた下界に降りる。登って降りるだけ、何の意味もない。
じじいになって、もう部屋でじっとしてるのは我慢ならん、急に体を動かしまくりたいという衝動が出てきてトレーニングとかやってる。それでなんとなく気象とか読図とかロープワークとか復習してみたり。救急法の勉強とかも必要。
山道具の店をのぞいたら、あらゆる装備が小型化・軽量化されてて、これは未来の世界なのかとビビり、そのまま回れ右をして帰宅。当然、キスリングは売ってなかった。
樹林帯の上の世界とか一面真っ白な世界をもう一度見たい気はありますが、
無理でしょうね。もう山には登らない。
長いブランクがある中高年が遭難…みたいな絵に描いたようなパターンになりかねないので。